青髪鬼 横溝正史 [#改ページ] [#表紙(表紙.jpg、横144×縦210)]  目 次   青髪鬼《せいはつき》   廃屋《はいおく》の少女   バラの呪《のろ》い   真夜中の口笛《くちぶえ》 [#改ページ] [#見出し] 青髪鬼《せいはつき》    謎《なぞ》の死亡《しぼう》広告  世の中にはときどき、みょうないたずらをするやつがいるものだが、ある日、東京の大新聞に、いっせいにかかげられた、三つの死亡広告などもそうであった。  死亡広告というのは、君たちもごぞんじのとおり、人が死ぬと家族の人が知人に通知を出すかわりに、新聞に出す黒わくつきの広告のことである。  だから、死亡広告に出される人は、死んだ人ときまっているのだが、そのとき、東京の大新聞に、死んだものとしてかかげられた三つの死亡広告の、三人が三人とも、まだぴんぴん元気でいるのだから、なんともみょうな話というほかはなかった。  そのとき、死亡広告に出された三人というのは、つぎの人々だった。  古家万造《ふるやまんぞう》。この人は日本の宝石王《ほうせきおう》といわれるくらいの大金持ちで、そのとき、六十|歳《さい》。  神崎省吾《かんざきしようご》。この人は有名な学者で、理学博士の肩書《かたが》きを持っている。年は四十五歳。  さて、さいごのひとりというのは月丘《つきおか》ひとみといって、まだ十三歳の少女だったが、この三人が死んだものとして、新聞に死亡広告を出されたのである。これを見ておどろいたのは、三人の友人や知人だった。それぞれ、三つの家へおくやみに出かけたが、行ってみると、死んだはずの三人が、ぴんぴんしているので、二度びっくり、あっけにとられてしまった。  しかし、おどろいたり、あっけにとられたりしたのは、友人や知人ばかりではなかった。いや、その人たちよりも、もっともっとおどろいたり、あっけにとられたりしたのは、死亡広告を出された三人だった。  それはそうだろう。生きながら、死人として広告を出されたのだから、こんなきみのわるい話はない。そこで、三人の家から新聞社へ、げんじゅうな抗議《こうぎ》を申しこんだ。  新聞社でもびっくりして調べてみると、それらの広告はみんな、広告の文章と広告料をいっしょにして、各新聞社の広告部へ送ってきたのだが、さて、差出人が、だれなのか、それがさっぱり、わからないのだ。ただ、わかっていることは、広告文の文字からみて三つの死亡広告を申しこんだのが、おなじ人間らしいということだけであった。  それにしても、そいつはいったい、なんだって、こんなきみのわるいいたずらをしたのだろうか。いやいや、それはただのいたずらなのだろうか。この三つの死亡広告のうらには、なにかしら、もっともっと、おそろしい、かくれた意味があるのではないだろうか。  気のどくなのは、死亡広告に出された三人である。  古家万造や、神崎博士のようなおとなでさえ、あまりのきみわるさに、ふるえあがって、おどろきおそれたということだから、まだ十三歳の少女ひとみが、恐怖《きようふ》のために二、三日、寝《ね》こんだというのも、まことにむりのない話ではないか。  警察《けいさつ》でも、こういう話をきくと、ほうっておくわけにはいかない。やっきとなって、このいたずらの犯人《はんにん》をさがしたが、いまのところ、かいもく手がかりはなかった。  死亡《しぼう》広告を出された万造や神崎博士は、だれかにうらまれているようなおぼえはないかと、警官からきびしくきかれた。ふたりとも、そんなおぼえはないといいきったが、警官たちは、それにたいしてふかいうたがいを持っているようすだった。きっと、ふたりはだれかに、うらまれているにちがいないのである。  ただ、ここにふしぎなのは、ひとみのことである。万造や神崎博士とちがって、まだ十三の少女ひとみが、どうしてこんなきみのわるい、いたずらの犠牲《ぎせい》にされたのだろうか。  ああ、ひょっとしたら、神のような少女ひとみのうえに、なにかおそろしい、魔《ま》の手がさしのべられようとしているのではないだろうか……。  こうして謎《なぞ》の死亡広告が出されてから、はや二週間たったが、ここにひとつの事件《じけん》がおこり、それをきっかけとして、世にも恐《おそ》ろしい白蝋仮面事件《びやくろうかめんじけん》の幕《まく》が切っておとされたのであった。    探偵小僧《たんていこぞう》 「おお、小僧《こぞう》さん、三津木《みつぎ》さんはいますか。三津木|俊助《しゆんすけ》さんは……」  そこは東京一といわれる大新聞社、新日報社《しんにつぽうしや》の三階|編集室《へんしゆうしつ》の入口である。  だしぬけにこう声をかけられて、受付のデスクから顔をあげたのは、新日報社の人気者、探偵小僧《たんていこぞう》とよばれる御子柴進《みこしばすすむ》だ。 「三津木さんはいま会議中ですが……」 「なに会議中……? いや、会議中でもなんでもいい。すぐここへ呼《よ》んでくれたまえ。重大な話があるんだから」 「いや、そういうわけにはいきません。幹部《かんぶ》の人たちが集まって、なにか、たいせつな会議があるらしいんですから」 「おいおい、小僧さん、そんな、いじのわるいことをいわないで、ちょっと呼んできてくれよ。こっちこそ重大な事件なんだ。いく人もの命にかかわる重大事件だ」 「えっ? いく人もの命にかかわる……?」  進は、ぎょっとして、あいての顔を見なおした。  しかし、その男は、帽子《ぼうし》をまぶかにかぶり、外套《がいとう》のえりを立て、おまけに、首巻きで鼻の上までかくしているので、顔といってはほとんど見えない。ただ上から見おろすふたつの目が、みょうにギラギラひかっていて、きみのわるさを感じさせる。 「そうだ、いく人もの命にかかわる重大事件だ。何人も、何人もの人がころされるかもわからないんだ。だから、小僧さん、すぐ三津木さんを呼んでくれたまえよ」  進はちょっとまよった。男のことばの調子から、うそやでたらめをいっているとは思えない。なにかしら、この人は、よういならぬ秘密《ひみつ》をにぎっているのではあるまいか。 「こまりましたねえ。会議中はぜったいに、だれも近よってはならぬという、規則《きそく》になっているものですから……だれか、ほかのかたではいけませんか」 「いや、ほかの人ではいけないんだ。三津木さんにかぎるんだ。そのことは、さっき三津木さんに、電話でいっておいたはずなんだが……」 「ああ、それでは、あなたは川崎《かわさき》さんというかたではありませんか」 「川崎……? ああ、そうそう、川崎だ、川崎だ。その川崎があいたいといってるからと、すぐに三津木君を呼《よ》んできてくれたまえ」  進は、デスクから立ちあがった。 「ああ、その川崎さんなら、お見えになったら応接室《おうせつしつ》でお待ちくださるようにと、三津木さんのことづけでした。どうぞこちらへ」  編集室《へんしゆうしつ》の入口と、ろうかひとつへだてて、応接室の入口がある。進は、そこへ客を案内した。 「きみ、きみ。それじゃ、すぐに三津木さんを呼んできてくれるだろうね」  客はあくまでいそいでいる。進は、とほうにくれたように、 「いえ、そういうわけには……さっきもいいましたように、会議中はぜったいに、だれも近よれないものですから……。でも、もうすぐ会議もおわりましょう。しばらく、ここでお待ちください」  まるで、おりの中のけだもののように、応接室のなかをそわそわと歩きまわっている客をのこして、じぶんのデスクへかえってきた進が、腕時計《うでどけい》を見ると九時半だった。今晩《こんばん》は夜勤《やきん》の番で、進は十二時までのつとめなのだ。  それにしても、あの客は、いったいどういう人だろう……。  進は、いすに腰《こし》をおろしながら考えた。  いく人もの命にかかわる重大|事件《じけん》だなんて、ほんとのことだろうか。何人も、何人もの人間がころされるかもしれないなんて、ほんとうだろうか。  進はしかし、だんだんそれをほんとうだろうと信じるようになった。それというのが、客のそぶりや、ことばの調子が、とてもまじめだったからである。いやいや、まじめをとおりこして、ひどくおびえているようすさえ見えるのだ。  それにしても、三津木さんはえらいなあと、進は考えた。ああして、むこうから事件を持ちこんでくるんだもの。ぼくもはやく三津木さんのような、りっぱな新聞記者になりたい。  三津木俊助というのは、新日報社の宝《たから》といわれるくらいの腕きき記者で、進にとってはあこがれのまとであった。ことし中学を出た進が、新日報社を志望《しぼう》したのも、そこに三津木俊助という有名な記者がいるからだった。  三津木俊助は新聞記者というよりも、名探偵《めいたんてい》として有名である。かれはいままで、かぞえきれないほど多くの怪事件《かいじけん》をみごとに解決してきた。小さいときから探偵小説がすきで、探偵|小僧《こぞう》というあだ名があるほどの進が、あこがれるのもむりはなかった。  編集室《へんしゆうしつ》の柱時計が十時をうった。と、とつぜん、応接室《おうせつしつ》からさっきの客がとび出してきて、 「きみ、きみ、小僧《こぞう》さん。ぼくはもうこれ以上待てない。また、出なおしてくる。それまでこれをあずかっておいてくれたまえ」  と、ポケットから、四角な封筒《ふうとう》を取出して、たたきつけるように進のデスクにおくと、ふらふらと、お酒によったような足どりで、階段《かいだん》をおりていった。  進は、しばらくあっけにとられたような顔色で、ふしぎな客のうしろすがたを見送っていたが急に気がついて立ちあがると、客のおいていった封筒をデスクのひきだしにしまいこみ、それから帽子《ぼうし》と外套《がいとう》をとって、ろうかへとび出した。と、出あいがしらにぶつかったのは、花井《はない》という記者だった。 「よう、探偵小僧《たんていこぞう》。顔色かえてどこへいくんだい」 「あっ、花井さん。いま川崎という人が、三津木さんにあいたいといってきましたが、会議があまり長びくので待ちきれなくなってかえっていきました。そのことを、三津木さんにいっておいてください」  それだけのことをいいのこすと、進は階段を二、三段ずつとびおりて、新日報社の正面|玄関《げんかん》からとび出した。  新日報社は数寄屋橋《すきやばし》の近くにある。銀座《ぎんざ》が近いのでまだおおぜいの人が、ぞろぞろ歩いていたが、進は、その人ごみの中から、すぐ、さっきのふしぎな客を発見した。  その人は、あいかわらず、よっぱらったような足どりで、ふらふらと日比谷《ひびや》の方へ歩いていく。ときどき、立ちどまって、びっくりしたようにあたりを見まわしたり、首をつよくふったりしているのは、どこか気分でもわるいのだろうか。  しかし、そのことは、あとをつけようとする進にとっては、もっけのさいわいであった。そうなのだ。進は、あのふしぎな客を尾行《びこう》しようとしているのである。  探偵小僧とあだ名されるほど探偵小説がすきで、そのために、三津木俊助にあこがれて新日報社へはいったものの、毎日、上役《うわやく》にお茶をくんだり、手紙や葉書の整理をしたり、お客の取りつぎをするだけでは、つまらなくてしかたがない。  いつかじぶんも三津木さんのように、ふしぎな事件《じけん》を手がけてみたいと、つね日ごろ、夢《ゆめ》みるようにかんがえていたやさき、今夜やってきたふしぎな客……これをこのまま、見のがしてなるものかとばかりに、進はすっかりはりきっているのだった。  ふしぎな客は、あいかわらず、ふらふらした足どりで日比谷|交叉点《こうさてん》までやってきた。進は、四十メートルほどあとからつけていったが、そのうちに、ふと、みょうなことに気がついた。  ふしぎな客と進とのあいだに、もうひとりあやしい男がいるのだ。はじめのうち、進も気がつかなかったが、ふしぎな客が立ちどまると、その男も二十メートルほどうしろで立ちどまる。そして、ふしぎな客が歩き出すと、その男も、のろのろとあとからついていく。ああ、もうまちがいない。あの男もふしぎな客をつけているのだ!  進の心臓《しんぞう》は、急に、がんがん、おどり出した。  これはいよいよただごとでない。あのふしぎな客は、なにか、よういならぬ秘密《ひみつ》を知っているのかもしれない。そして、そしてそのために、わるものにつけねらわれているのではあるまいか……。  ふしぎな客は交叉点《こうさてん》をつっきると、しばらく道ばたに立って、ぼんやり考えていたが、やがて、ふらふらと日比谷《ひびや》公園のなかへはいっていった。なんだか足もとがいよいよみだれて、歩くのもやっとだというふうに見える。  ふしぎな客のあとにつづいて、あやしい男も公園のなかへはいっていった。つばの広い帽子《ぼうし》をかぶり、マントのようなものを着た、背《せい》のたかいうしろすがたが、なんだか魔物《まもの》のようにきみがわるいのだ。  その男のすがたが、公園のなかへ消えるのを見とどけて、進もいそいで交叉点をつっきった。そして、あやしい男を追うように、公園のなかへとびこんだが、そのときには、ふしぎな客のすがたも、あやしい男のかげも、もう、どこにもみあたらなかった。  なにしろ公園の入口からは、いくつもの道が、あみの目のように走っているし、それに木がしげっているので、ふたりとも、どの道をいったのかわからないのだ。進はしばらく、とほうにくれたように立ちどまっていたが、しかし、いまさら、あきらめてかえる気にはなれない。それに、あやしい男にあとをつけられているふしぎな客のことも気にかかるのだ。  ええ、ままよとばかりに、進は、でたらめの道を歩いていった。    公園のクモ  公園のなかには、ところどころ、街燈《がいとう》がついている。だから、まっくらだというわけではないが、それでも街燈の光のとどかぬ木かげなど、うすぐらくてなんとなくきみがわるいのだ。  進《すすむ》はときどき、そういうくらやみのなかに立ちどまって、じっと耳をすましたが、どこからも足音はきこえない。ふしぎな客も、あやしい男も、公園のやみにすいこまれて、消えてしまったのではないかと思われるほどのしずけさである。  進は、きみわるさに身ぶるいをしながら、それでもまだ、あきらめてかえる気にはなれなかった。あてもなく、公園のなかを歩きまわっていたが、そのうちに、とつぜん、ギョッとして立ちどまった。どこかで、悲鳴がきこえたからである。しかもそれは、男の声ではなく、たしかに、女の人の悲鳴のようだった。  進は一しゅん、棒《ぼう》をのんだように立ちすくんだが、すぐ、勇をふるって、悲鳴のきこえた方角へ走っていった。するとそのとき、むこうから、バタバタと足音をさせて走ってくるかげが見えた。  進とそのかげは、ちょうど街燈《がいとう》の下で出あったが、なんとおどろいたことには、それは、まだ十二か三の少女ではないか。 「きみ、きみ、どうしたの。いま、むこうで悲鳴をあげたのはきみだったの」 「ああ! あたし、こわいの、こわいの」  少女は、むちゅうになって進にすがりついてきた。 「こわい? こわいってなにがこわいの?」 「あの人が、きゅうに口から血をはいて、お池のほとりにたおれたんです。あたし、もう、びっくりしてしまって……」 「あの人ってだれのこと?」 「だれだか知らないの。今夜十時に、日比谷《ひびや》公園の噴水《ふんすい》のそばへくれば、あの死亡《しぼう》広告の秘密《ひみつ》を話してやると、だれか知らない人から手紙が来たんです。それでさっきから待ってると、あの人がやってきて、なにか話しかけたと思ったら、急に苦しみ出して、口から血をはいてたおれたんです」 「死亡広告の秘密……?」  進は、急に気がついたように、街燈の光で少女の顔を見なおした。 「ああ、それじゃきみは、このあいだ、死亡広告を出された月丘《つきおか》ひとみという子だね」 「ええ、そうです。でも、あなたどうして知ってらっしゃるの」 「だって、あのとき、死亡広告を出された人の写真がみんな新聞に出たもの……それで、血をはいたって人どこにたおれているの」 「むこうのお池のそばよ。噴水のある……」 「行ってみよう。きみも来たまえ」 「いや、いや、あたし、いや。だって、だってこわいんですもの」 「そう、それじゃ、きみはここに待っていたまえ。いいかい、動いちゃいけないよ。この街燈の下で待っているんだよ」 「ええ、そのかわり、おにいさま、すぐかえってきてちょうだいね」 「うん、すぐかえってくる」  きょうだいのない進は、かわいらしい少女から、おにいさまとよばれて、急にうれしくなった。  街燈の下に、ひとみをのこして、いまそのひとみが走ってきた道をいそいでいくと、むこうに噴水が見えてきた。その噴水を目あてに走っていくと、やがて池のほとりへ出た。  それにしても、血をはいた男というのは……?  池のほとりにも街燈が、二つ三つ立っている。進はその街燈の光で、池のほとりを見まわしていたが、ふと見ると、むこうのベンチの下に、たしかに人がたおれているようである。  進は、いそいで、そのほうへかけよったが、ベンチから五、六メートルほどてまえまで来たとき、とつぜん、かなしばりにあったように、全身が動かなくなってしまった。  進は、そのとき、なんともいえぬほどおそろしいものを見たのである。  ベンチの下にたおれているのは、たしかにさっき、新日報社へたずねてきた人のようだったが、そのからだの上を、世にもおそろしいものがうごめいているではないか。  それはクモだった。それも世の常《つね》のクモではなく、足をひろげた直径が一メートルほどもあろうと思われる、おばけのような大きなクモが、毛むくじゃらの足をひろげて、ふしぎな客のからだの上を、のそりのそりとうごめいているきみわるさ……。    青髪鬼現《せいはつきあらわ》る  そのとき、ベンチのそばの植えこみから、さっととび出してきたひとつのかげ。進は思わず、あっと息をのみこんだ。そのかげに見おぼえがあったからである。  つばの広い帽子《ぼうし》に、だぶだぶのマント。まぎれもなくそれは、さっきから、そこにたおれている男をつけていたかげではないか。  あやしい男は帽子の下から、ギロリと進の方をにらむと、つぎのしゅんかん、ステッキをあげて、さっと、クモの上へうちおろした。  と、ああ、なんというふしぎなことだろう。あのおそろしいクモのすがたが、けむりのように消えてしまったではないか。 「あっ!」  進は、思わず目をこすって見なおした。しかし、クモのすがたはどこにも見あたらなかった。ああ、夢《ゆめ》かまぼろしか。あのおそろしいクモは、空気のように消えてしまったのだ。  あやしい男は、またギョロリと進の方をにらむと、たおれている男のそばにひざまずいて、ポケットのなかをさぐっている。それを見ると進は、かっと怒《いか》りがこみあげてきた。つかつかとそばへかけよると、 「なにをするんです。ひとのポケットをさぐったりして……あなたは、どろぼうですか」  しかし、男はへいきな顔で、あいかわらずポケットのなかをさぐっている。 「よしなさい、このひとは病気なんです。はやくかいほうしてあげなければ……」 「こいつは病気じゃないよ」  男がひくい、いんきな声でこたえた。 「こいつはもう死んでいるんだ。毒をのまされて死んでいるんだ。かいほうしても、もうおそい」  進は、はっと心臓《しんぞう》がつめたくなった。 「だれが……だれが毒をのませたのです」 「それはいえない。おれにもまだ、はっきりわからないんだ。そんなことより、おい、小僧《こぞう》」  男は、あいかわらずうつむいたまま、 「きさまは新日報社の小僧だろう。こいつが、新日報社で、だれかに封筒《ふうとう》のようなものをわたしゃしなかったかね」  進は、はっと、いきをのみこんだ。さっきあずかったあの封筒。……あれなら、いま、じぶんのつくえのひきだしにあるのだ。 「いいえ、知りません。そんなこと知りません。それより、これはどういう人です」 「これか、この男はな、佐伯恭助《さえききようすけ》といって、宝石王《ほうせきおう》、古家万造《ふるやまんぞう》の秘書《ひしよ》だよ」  進はまた、ギョッと、息をのみこんだ。古家万造といえば、あのなぞの死亡《しぼう》広告を出された、犠牲者《ぎせいしや》のひとりではないか。 「そして……そして、そういうあなたは?」 「おれか。おれはな、あの死亡広告を出した広告ぬしだ」 「えっ!」 「おどろいたか。あっはっは、あの広告はな、三人にたいする死刑《しけい》の宣告《せんこく》なのだ。おれはいまに、あの三人を死刑にしてやる。殺してやるんだ。まず古家万造、それから神崎《かんざき》博士、さいごには、かわいそうだが月丘《つきおか》ひとみだ。おれはあの三人に復讐《ふくしゆう》してやるんだ。そして……そして、ぬすまれた大宝窟《だいほうくつ》をとりかえすんだ」  進は、全身が氷のようにひえていくのをおぼえた。男の声に、なんともいえぬ、おそろしい冷酷《れいこく》なひびきがあったからである。 「あなたは……あなたはいったい、だれだ」 「おれか、おれは復讐魔《ふくしゆうま》、青髪《せいはつ》の鬼《おに》だ!」  あやしい男は、とつぜんすっくと立ちあがり、街燈《がいとう》の下でさっと帽子《ぼうし》をとったが、そのとたん、進はあまりのおそろしさに、おもわず二、三歩とびのいた。  それはまるで西洋のサタンか、あの世からきた亡者《もうじや》のようにおそろしい顔!  つりあがった目は鬼火《おにび》のようにギラギラひかり、鼻がとがって、かっと大きくさけた口、ミイラのようにかさかさとして、しわのよった灰色《はいいろ》のはだ。しかし、おそろしいのはそればかりではない。ライオンのたてがみのようにふりみだした髪《かみ》の毛は、秋の空よりも、もっとまっさおではないか。  あとになって、そのときのことを考えると、進は夢《ゆめ》を見ていたのではないかと、じぶんがうたがわれるくらいであった。  世の中には金髪《きんぱつ》のひと、銀髪のひと、赤毛のひと、またブルーネットといって、青みをおびた髪のひともある。しかし、秋の空よりまっさおな髪の毛なんて、いままで見たことも聞いたこともない。  けむりのように消えてしまった、さっきのあのおそろしいクモといい、ひょっとすると、じぶんは気がへんになったのではないかと、進は心ぼそくなったくらいである。  しかし進は、けっして気がへんになったのでも夢を見ていたのでもなかった。そいつはたしかに、まっさおな髪《かみ》の毛をしていたのだ。その髪の毛をふりたてながら、 「おい、小僧《こぞう》!」  と、そいつは、きみのわるい声でわめいた。 「きさまの社には、たしか三津木俊助《みつぎしゆんすけ》という名探偵《めいたんてい》がいたな。そうだ、ここに死んでいる佐伯が、新日報社へいったのも、三津木俊助にあいにいったにちがいない。おい、小僧!」  青髪《せいはつ》の鬼《おに》は、ギラギラするような目で、進をにらみながら、 「きさま、これから社へかえったら、俊助のやつによくいっておけ。佐伯のやつにどんな話を聞いたにしろ、なにをあずかったにしろ、そんなことはなにもかも忘《わす》れてしまえとな。そして、あずかったものがあったとしたら、焼きすててしまえとな。そして、ぜったいに、この事件《じけん》に手出しをしてはならんといえ。わかったか、わかったらいけ!」  あやしい男は、それだけいうと、くるりときびすをかえして、風のように、うす暗い、しげみのなかへかけこんだ。 「待て!」  進はあとから声をかけようとしたが、舌《した》がこわばって声が出ない。追っかけようにも、足がいうことをきかないのである。  進は、しばらくぼうぜんとして、そこに立ちすくんでいたが、ちょうどさいわい、そこへ音楽会のかえりらしい、五、六人の男女がとおりかかった。  進は、はっと勇気をとりもどして、 「ああ、みなさん、お願いです。ここにひとが死んでるんです。おまわりさんを呼《よ》んできますから、それまで番をしていてください」  それだけいうと、進は、あっけにとられたひとびとを、そこに残して、あやしい男のあとを追いかけた。しかし、もうそのころには、あの青髪鬼《せいはつき》のすがたは、どこにも見えなかった。  進は、ひとみを待たせておいたところまでかえってきた。ひとみのすがたも見えない。きっとこわくなったので、さきへかえっていったのだろう。  進は公園をとび出すと、交番の警官《けいかん》に、ひとが死んでいることをつげ、それから、ちゅうをとぶようにしてかえってきたのは新日報社。ちょうど会議もおわったらしく、俊助は、いましも、かえりじたくをしているところだったが、それを見ると進は、思わず大声でさけんでいた。 「あっ、三津木さん、たいへんです。さっきあなたに会いにきた、川崎というひとが、日比谷《ひびや》公園で死んでいます。毒をのまされて殺されたんです。そして、そのひとの名は、ほんとうは川崎ではなく、佐伯恭助といって宝石王《ほうせきおう》、古家万造の秘書《ひしよ》なんです」  ひといきにしゃべる進の話をきいて、俊助はいうにおよばず、まだ残っていたひとびとが、さっといっせいに、立ちあがった。 「探偵小僧、そ、それはほんとうか」 「ほんとうです、ほんとうです」 「よし!」  俊助が行こうとするのを、進はあわててとめると、 「あっ、三津木さん、あなたは行っちゃいけません。あなたには、まだ、もっともっとだいじな話があるんです。ほかのひとに行ってもらってください」  意味ありげな進の顔色を、俊助はじっと見ていたが、やがて強くうなずくと、 「よし、樽井《たるい》君、それじゃ、きみ行ってくれたまえ。わかいのを二、三人、それから写真|班《はん》をつれていくんだぜ。探偵小僧《たんていこぞう》、きみはぼくといっしょに、山崎《やまざき》さんの部屋《へや》へいこう」  山崎というのは編集《へんしゆう》局長である。進は、じぶんのつくえのひきだしから、あの封筒《ふうとう》を取り出すと、胸《むね》をふるわせながら、三津木俊助のあとからついていった。  願いかなって進は、とうとう、世にもすばらしい事件《じけん》にぶつかったのである。    三本の毛  さいわい、山崎編集局長はまだ部屋にいた。俊助は、いくらかこうふんのおももちで、 「山崎さん、ちょっとお耳をかしてください。どうやら探偵小僧がすばらしい特ダネをひろってきたらしいんです」  特ダネというのは、ほかの新聞社の知らない事件のことで、新聞記者として、特ダネをひろってくるほど大きな手がらはない。 「ほほう、それはそれは……まあ、かけたまえ」  山崎編集局長は五十二、三のたいへんおだやかな人がらだが、それに反して俊助は三十五、六、いかにも腕《うで》ききの新聞記者らしい、言語も動作もきびきびとした人物である。 「さあ、御子柴《みこしば》君、話してくれたまえ。ぼくに話したい、もっともっとだいじなことというのは、どういうことだね」  編集局長と腕きき記者をまえにして、進もちょっとかたくなったが、それでも問われるままに、さっきからのできごとを、のこらず話した。  山崎と俊助は、はじめのうち、たいへん興味をもって聞いていたが、話が、一メートルもあるクモが、けむりのように消えただの、髪《かみ》の毛がまっさおだっただのという話になると、ふっと顔を見あわせた。  やがて、進の話がおわると、 「おい、探偵小僧、それ、ほんとの話かい。おまえ、あまり探偵小説を読みすぎて、へんな夢《ゆめ》を見たのじゃないかい」  と、三津木俊助《みつぎしゆんすけ》がいった。 「ちがいます、ちがいます。そんなことはありません」 「しかし、南洋やアマゾンの奥《おく》ならともかく、この日本に一メートルもあるクモがいるなんて、信じられないじゃないか。ましてや、それがけむりのように消えたなんて……」 「それに、秋の空より青い髪《かみ》の毛なんて話も、いままで聞いたことがないね」  編集局長も、おだやかにことばをそえた。 「だって、だって、ほんとうなんです。ぼくも夢《ゆめ》を見ているんじゃないかと思ったんです。しかし、夢じゃなかったんです。それに……」  進がくやしそうにさけんでいるときだった。つくえのうえの電話のベルが鳴ったので、俊助がすぐに受話器をとりあげた。 「ああ、ぼく、三津木……ああ、樽井《たるい》君だね。どう? 日比谷《ひびや》公園のほう……えっ、ほんとに死体がある? 毒をのまされて……? 古家万造《ふるやまんぞう》の秘書《ひしよ》の佐伯《さえき》にちがいないって? それ、ほんとかい? きみはどうして佐伯を知ってるの? ああ、あの死亡《しぼう》広告の事件《じけん》のとき、古家|邸《てい》をおとずれて、秘書の佐伯にもあったんだね。よし、それじゃもうまちがいはないね。ときに、警官《けいかん》は佐伯だってこと知ってるかい? なに、知らない? しめしめ、それじゃ、だれにもいうな。特ダネだ、すばらしい特ダネだ! それじゃね、あとはわかい連中にまかせて、きみはすぐに古家邸へとんでくれたまえ。しかし、万造にあっても、佐伯の殺されたことはいうな。うん、それじゃ、連絡《れんらく》を待っている」  ガチャンと受話器をかけてふりかえった、三津木俊助のひとみは、こうふんのために、もえあがるようだった。 「おい、探偵小僧《たんていこぞう》、おれの頭を三べんぶんなぐってくれ。うたがってすまなかった」 「三津木君、それじゃ、探偵小僧の話は事実なんだね」  山崎編集局長も、こうふんしている。 「事実も事実、山崎さん、探偵小僧をほめてやってください。こりゃあ、たいした手がらですぜ。ときに探偵小僧、佐伯からあずかった封筒《ふうとう》というのは……?」  三津木俊助にほめられて、進はよろこびにふるえながら、ポケットから封筒をとり出した。  俊助は取る手おそしと封を切ると、まず、なかからとり出したのは、うすい紙でつくった紙袋《かみぶくろ》。すかして見ると、なかにはいっているのは、二、三本の髪の毛らしい。  俊助はふるえる指で、その紙袋の封をきると、なかから取り出したのは、長さ二十センチばかりの髪の毛三本。俊助は、それを電気の光ですかして見て、 「あっ、こ、これはいけない!」 「ど、どうした三津木君」 「あなたもぼくも、どうしたって、いやというほど、探偵小僧にぶんなぐってもらわなきゃいけませんぜ。ごらんなさい。この髪の毛は、秋の空よりまっさおです!」  山崎編集局長と三津木俊助は、しばらくぼうぜんとして、俊助の指さきにからんでいる、きみのわるい髪の毛を見つめていたがやがて編集局長は、かるいせきをして、 「いや、これでいよいよ探偵小僧の話が、事実であることがはっきりした。ときに三津木君、ほかにまだなにかあるようじゃないか」  編集局長に注意されて、俊助は気がついたように、三本の髪の毛をていねいに、もとの紙袋へしまいこむと、あらためて封筒《ふうとう》のなかから取りだしたのは、三、四|枚《まい》の写真だった。  俊助はいちばん上にある写真を見るなり、 「あっ、探偵小僧、きみがさっきあった青髪鬼《せいはつき》というのは、これじゃないか」  俊助からわたされた写真を見て、進はおもわずさけんだ。 「あっ、これです、これです、この人です。この人にちがいありません」  そこにうつっているのは、腰《こし》から上の半身像《はんしんぞう》だったが、たしかにさっきの青髪の鬼《おに》にまちがいない。  つりあがった目にとがった鼻、かっと大きくさけた口、ミイラのようにかさかさとして、しわのよったはだ。……髪の毛は、つばの広い帽子《ぼうし》のために見えないが、亡者《もうじや》のようなきみわるさは、たしかにさっきの男なのである。  編集局長も写真を手にとって見て、 「ふうむ、なるほど、きみのわるいやつだな。ときに三津木君、ほかのは……?」 「ちょっと待ってください、どうもみょうだな。ここにもう一枚、青髪鬼の写真があるんですが……ちょっと、その写真をかしてください」  俊助はさっきの写真をとりあげると、しばらく二枚の写真を見くらべていたが、 「山崎さん、ちょっと見てください。これは同じやつの写真のようでもあるが、どこか別人のような気もする。といって、こんなきみのわるいやつが、ふたりとあろうはずはないが……」 「どれどれ」  進も山崎編集局長のそばからのぞきこんだが、なるほど、俊助がまようのもむりはない。それはたいへんよく似《に》た写真でありながら、そういえば、どこかちがうようなところもあるのだ。 「どうもへんだな。ぼくにもはっきりいえんが、まあ同じ人物じゃないかね」 「探偵小僧、きみの見たやつはどっちに似ている」  進はしばらく考えたのち、あとのほうを指さした。 「山崎さん、これは同じやつかもしれませんが、ねんのために、いちおう区別しときましょう」  三津木俊助はそういって、さきのほうの写真のうらに、青髪鬼第一号、あとのほう、すなわち進が指さした写真のうらに、青髪鬼第二号と書きいれた。  さて、写真は、ほかにもう一枚あったが、それは、どこかの海岸らしく、うちよせる波のなかに烏帽子《えぼし》のような形をした岩が、にょっきりとそびえているのだ。ほかにくらべるものがうつっていないので、ほんとの大きさはわからないが、かなり大きな岩のように思われる。 「はてな、この写真は、どういう意味だろう」 「三津木君、もう一枚紙きれがあるじゃないか。それに、なにか書いてないかね」  俊助はその紙きれをひらいてみて、思わず大きく目をみはった。  なんと、そこに書いてあるのは、一ぴきの大きなクモではないか。そして、そのクモの形の上の余白《よはく》に、なにやら符号《ふごう》のようなものが、二、三行書いてあったが、俊助がそれを調べようとしたときだった。  卓上《たくじよう》電話が、またけたたましく鳴り出したので、俊助はいそいで受話器をとりあげた。 「もしもし、新日報社ですか。三津木俊助さんはいらっしゃいますか」  とおく、かすかに、しゃがれた声がきこえる。 「ぼく、三津木ですが、どなた……?」 「ああ、そう、こちらは古家万造です」 「えっ?」 「ほら、いつか死亡《しぼう》広告を出された古家万造です」 「ああ、わかりました。で、なにかご用ですか」 「そちらへきょう、うちの秘書《ひしよ》の佐伯がいったはずですが、まだいますか」 「ああ、佐伯さんなら、お見えになったことはお見えになりましたが、ぼくが会議中だったので、待ちきれなくて、おかえりになりましたが……」 「それじゃ、お会いにならなかったんですね」 「ええ、会えませんでした」 「佐伯は、なにかあずけていきゃあしませんでしたか」 「いいえ、べつに……」  電話のぬしは、しばらくかんがえているふうだったが、きゅうに声をふるわせて、 「じつはね、三津木さん。あんたに、ひとつお願いがあるんです。それで、きょう佐伯をさしむけたんですが……わたしは、ある男に命をねらわれているんです。そいつは、じつに、じつに、おそろしいやつなんです。そいつがちかごろ、わたしの身辺につきまとって……あっ!」 「ど、どうしました。古家さん、もしもし、もしもし……」 「た、たすけてくれえ! クモ……クモだ、クモだ! おばけグモだ、……あっ、き、来た! 青髪鬼《せいはつき》だ、……た、た、す、け、て……」  声が、しだいに細くなっていったかと思うと、なにか、ドサリとたおれる音がして、あとは墓場《はかば》のようなしずけさ……。    怪盗出現《かいとうしゆつげん》 「もしもし、もしもし、どうかしましたか。古家さん、古家さん、もしもし……」  俊助《しゆんすけ》は電話にしがみつき、やっきとなってさけんでいたが、するとしばらくたって、 「新日報社の三津木《みつぎ》俊助かい」 と、聞えてきたのはいままでとは、まるでちがったいんきな声。 「おれは青髪鬼《せいはつき》だ。いま、復讐《ふくしゆう》第一号をやってのけた。古家万造《ふるやまんぞう》をころしたのだ」 「な、な、なんだって!」  俊助は全身の毛という毛が、いちどにさかだつ感じだった。 「なにもおどろくことはないさ。これがおれの復讐の手はじめだ。このつぎは神崎《かんざき》博士、それからさいごは月丘《つきおか》ひとみだ。あっはっは、よくおぼえておくがいい。あっはっは」  ほら穴《あな》から吹《ふ》きぬけてくるような、きみのわるい声をあげて笑うと、ガチャリと受話器をかける音。俊助は、はっとわれにかえると、てみじかにいまの電話のようすを、山崎編集《やまざきへんしゆう》局長や進《すすむ》に話をして、 「山崎さん、とにかくぼくは、これからすぐに古家|邸《てい》へいってみます。探偵小僧《たんていこぞう》、きみもぼくと、いっしょに来たまえ」  と、大いそぎで出かけようとしたが、きゅうに気がついたように、進が佐伯秘書《さえきひしよ》からあずかった封筒《ふうとう》のなかから、取りだしたのは、クモの暗号をかいた紙きれである。 「この暗号はぼくがおあずかりしておきます。写真や青い髪《かみ》の毛は、山崎さん、あなたがあずかっておいてください。さあ、いこう」  と、自動車をよんだ三津木俊助は、探偵小僧の御子柴《みこしば》進をつれて、新日報社をとび出したが、それからものの十分もたたぬうちに局長室のドアをたたく音。 「だれ……?」  と、山崎がたずねると、 「ぼくです。三津木俊助です」 「三津木君? なにか忘《わす》れものかい。おはいり」 「はあ、ちょっと……」  まぶしそうに光線をよけながらはいってきた、三津木俊助の顔を見て、 「忘れものってなんだい?」  と、山崎がたずねると、 「さっきの封筒、あれはやっぱり、ぼくが、持っていたほうがよいと思うのですが……」 「ああ、そう」  デスクのなかから取りだした封筒を、なにげなくわたそうとして、とつぜん、山崎編集局長は、大声でさけんだ。 「あ、ち、ちがう。きみは三津木俊助じゃない。よくにているけれどちがっている!」 「あっはっは、見やぶられましたかな、とにかく、その封筒をわたしてもらいましょうか」  見ると、俊助ににたあやしい男は、しっかりピストルをにぎっているではないか。 「き、きさまはいったいだれだ。なにものだ」 「白蝋仮面《びやくろうかめん》!」 「な、な、なんだって!」  山崎がびっくりして、とびあがったのもむりはない。  ああ、白蝋仮面《びやくろうかめん》! 白蝋仮面といえば、いま日本中でかくれもない怪盗《かいとう》ではないか。全国の警察《けいさつ》では、血まなこになってこの怪盗を追っかけまわしているのだが、いまだにつかまえることができないのだ。  神出鬼没《しんしゆつきぼつ》というのはこの怪盗のこと。白蝋仮面という名があっても、かくべつ仮面をつけているわけではなく、まるで蝋《ろう》でつくってあるように、自由自在に顔がかわるというところから、だれいうとなく白蝋仮面。つまり変装《へんそう》の名人なのである。  その白蝋仮面が、よりによって、三津木俊助にばけてやってきたのだから、山崎がおどろいたのもむりはない。  山崎はあいてのゆだんを見すまして、そっとベルを押《お》そうとしたが、それを見るより、すばやくおどりかかった白蝋仮面。 「おっとっと、そんなことをしちゃいけない。あなたにはこのピストルが目にはいりませんか」  と、よこっ腹《ぱら》にピストルをおしつけると、山崎をいすにしばりつけ、さるぐつわまでかませてしまった。 「あっはっは、しばらくのごしんぼうだ。すぐに人をよこしてあげますからね。それじゃ、この封筒《ふうとう》は、もらっていきますぜ。わたしもこの事件《じけん》には興味を持っているんだ。ひとつ新日報社と競争で、この事件を調査していこうじゃありませんか。あっはっは」  三津木俊助にばけた白蝋仮面は、封筒をポケットにおさめると、ペコリと山崎編集局長におじぎをして、ゆうゆうとして局長室から出ていったのだった。    おそろしき影《かげ》  さて、話はすこしまえにもどって、こちらは新日報社の樽井《たるい》記者である。  日比谷《ひびや》公園で佐伯秘書《さえきひしよ》の死体をしらべると、すぐそのことを、俊助に電話で報告したが、そのときの俊助のさしずによるとその足で古家邸《ふるやてい》へいけとのこと。そこで自動車をとばしてやってきたのが小《こ》日向台町《ひなただいまち》。万造《まんぞう》のすまいは坂の上にある。  樽井記者は坂の下で自動車をおりると、まっくらな夜道をのぼっていったが、すると、そのときだしぬけに、くらがりのなかから出てきたかげが、ふらふらと樽井記者のそばへよってくると、 「すみません、たばこの火をかしてください」  なんともいえぬ、いんきな声でいった。  樽井記者がマッチ箱を出してわたすと、あいては無言のままマッチをすったが、そのとたん、樽井記者は全身につめたい水でもかけられたようなきみのわるさを感じた。  ああ、なんというおそろしい顔! 鬼火《おにび》のようにギラギラひかる目、とがった鼻、かっと大きくさけた口、ミイラのようにかさかさとして、しわのよった灰色《はいいろ》のはだ。……くらがりのこととて、髪《かみ》の色までは見えなかったが、これこそさっき日比谷《ひびや》公園で、進をおどろかせた青髪鬼《せいはつき》! 「いや、ありがとう」  青髪鬼はたばこに火をつけると、マッチを樽井記者にかえして、ふらりふらりと坂をのぼっていく。  もしこのとき樽井記者が、探偵小僧《たんていこぞう》の話をきいていたら、まさかそのまま、この男を、見のがすようなことはなかっただろうが、なにも知らなかったのだからしかたがない。 「なんという、きみのわるいやつだろう」  樽井記者はしばらくうしろすがたを見おくっていたが、やがて気をとりなおして、これもまた坂をのぼっていった。しぜん樽井記者は、青髪鬼のあとをつけていくかっこうになった。  やがて青髪鬼は坂をのぼって、一けんの洋館のまえまでくると、きゅうにそわそわと、あたりを見まわしはじめた。それを見ると樽井記者は、また、ギョッと息をのみこんだ。  いま、あやしい男がようすをうかがっているその家こそ、万造のすまいなのである。  あやしい男はしばらくようすをうかがっていたが、やがてヒラリと身をひるがえして、とびこんだのは門のなか、樽井記者がおどろいて、門のまえまでかけつけてきたときには、あやしい男は、もうかげもかたちも見あたらなかった。  それでは、あのきみのわるい男は、万造の知りあいなのだろうか。それにしても、がてんのいかぬあのそぶり……と、樽井記者が考えこんでいるところへ、やってきたのは警官《けいかん》である。 「どうかしましたか」 「ああ、おまわりさん。ぼくは新聞社のものですが、いまこの家へあやしい男がとびこんだんです」  と、てみじかに、いまの話をすると、 「ああ、そう、それじゃちょっと、家人に注意しておきましょう」  と、門をはいった警官が、げんかんのベルを押《お》そうとしているところへ、聞えてきたのは、電話をかけている声である。 「ああ、ご主人の声ですね」  警官は万造を知っているらしく、安心のいろをうかべたが、そのとき、とつぜん聞えてきたのが、さっき三津木俊助が、電話で聞いたあの声だった。 「た、たすけてくれえ! クモ……クモだ、クモだ! おばけグモだ、……あっ、き、来た! 青髪鬼だ、……た、た、す、け、て……」  樽井記者と警官《けいかん》は、それを聞くと顔見あわせて、思わずゾッと身ぶるいした。 「おまわりさん、庭の方へまわってみましょう」  げんかんのわきからくぐりをくぐって、庭へまわると洋間の窓《まど》に、あかあかとあかりがついているのが見えたが、なにげなくその窓《まど》へ目をやったとたん、樽井記者も警官も、全身の血がこおるようなおそろしさをかんじて、その場に立ちすくんでしまった。  カーテンのかかった窓のうらがわを、のそりのそりとはいまわっているのは、なんと、直径一メートルもあろうという、大きなおばけグモではないか。  あまりのことに、ぼうぜんと立ちすくんでいるふたりの耳に、そのとき、へやのなかから聞えてきたのは、ひくい、いんきな声だった。どうやら電話をかけているらしい。  やがてその声もとぎれて、ガチャンと受話器をかける音がしたかと思うと、くっきり庭にうつったのは、ライオンのたてがみのように、髪《かみ》ふりみだした男のかげである。 「あっ、さっきの男だ!」  樽井記者が思わずそうさけんだとき、室内の電気が消えて、おばけグモのすがたも、ライオンのたてがみのように、髪ふりみだした男のかげも、やみにのまれてしまった。 「おまわりさん、なにかあったのではないでしょうか」 「よし、なかへはいってみましょう」  樽井記者と警官は、窓のそばへかけよったが、窓はふつうの洋室よりずっと高くて、とても足場なしではのぼれそうもない。 「おまわりさん、ぼくがだいてあげましょう」 「そうですか。すみません」  樽井記者にだかれて、やっと窓のふちへのぼった警官は、ガラス戸をたたきながら、 「古家さん、古家さん、どうかしましたか」  声をかけたが返事もなく、家のなかは墓場《はかば》のように、しーんとしずまりかえっている。 「おまわりさん、窓はあきませんか」 「ええ、かけ金がかけてあるようです。しかたがない。ガラスをこわしましょう」  警官はガラスをこわして窓をひらくと、ヒラリとなかへとびこんだ。それから、からだをのりだして、手をのばすと、 「さあ、きみも来たまえ」 「おねがいします」  警官に手つだってもらって、やっと窓からとびこんだ樽井記者。もしや、さっきのあやしい男やおばけグモが、くらがりのなかからとびついて来はしないかと、用心ぶかく身がまえながら、懐中電燈《かいちゆうでんとう》でへやのなかを見まわした。  しかし、まっくらなへやのなかには、もののけはいは、さらにないのだ。  警官も懐中電燈の光で、へやのなかをしらべていたが、やっとスイッチのありかを見つけたらしく、カチッとそれをひねると、へやのなかが急に明るくなった。  しかし、そこにはなにひとつ、かわったことも見あたらないのである。窓にうつったあやしい男も、あのおそろしいおばけグモも、かげもかたちも見えない。  樽井記者はあいているドアに目をとめ、 「ああ、あそこからにげだしたのにちがいない。いってみましょう」  ふたりはろうかへ出ると、家中しらべてまわったが、どこにも人かげはない。 「へんですねえ。おまわりさん、この家には万造さんのほかにだれもいないのですか」 「いや、佐伯という秘書《ひしよ》と、飯たきばあさんがいるんですが……そうそう、ばあさんのほうは今夜|一晩《ひとばん》、おひまが出たから、親類のうちへとまってくると、夕がたに出かけていくのにあいました。しかし、佐伯秘書は……?」  その佐伯秘書なら、いま死体となって、日比谷《ひびや》公園によこたわっているのだ。 「とにかく、もういちど、さっきのへやをしらべてみましょう」  と、もとのへやへとってかえして、あたりを見まわすと、すみのほうに大きなデスクがあり、その上に卓上《たくじよう》電話、万造はたしかにさっき、この電話にむかっていたのである。  樽井記者はデスクのむこうにまわり、なにげなく、押入《おしい》れのドアをひらいたが、そのとたん、ワッとさけんでとびのいた。  樽井記者がドアをひらいたとたん、押入れのなかからクタクタところげ出してきたのは、パジャマを着た白髪《はくはつ》の老人。しかもその首には、くいいるばかりに赤い絹《きぬ》のひもが巻きついているではないか。 「あっ、古家万造さんだ!」  警官《けいかん》にいわれるまでもなく、樽井記者も知っていた。それこそ日本一の宝石王《ほうせきおう》、古家万造老人にちがいない。 「し、死んでるんでしょうね、むろん……」  樽井記者が声をふるわせた。警官は、床《ゆか》にたおれている万造の胸《むね》に、だまって手をあてていたが、急に目をかがやかせて、 「いや、心臓《しんぞう》がかすかに動いている。これはひょっとするとたすかるかもしれない」  警官は大いそぎで医者に電話をかけると、ついでに警察へも報告した。樽井記者もそのあとで、新日報社へ電話をかけようとしたが、そこへげんかんのベルの音。  三津木俊助《みつぎしゆんすけ》が探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴進《みこしばすすむ》とともにやっとかけつけてきたのである。    奇怪《きかい》な博士  さあ、それからあとの大さわぎは、いまさらここに書きたてるまでもないだろう。  医者がくる。警官《けいかん》がおおぜいかけつけてくる。古家邸《ふるやてい》は上を下への大さわぎ。  さいわい、医者の手あてがよかったのか、万造《まんぞう》はまもなく息をふきかえしたが、しかし生きかえったのは、からだだけのこと、たましいは死んだもおなじだったのだ。というのは、恐怖《きようふ》のためか万造は、気がくるっていたのである。 「ああ、クモだ……クモだ。おそろしい、おばけグモだ。あっ、き、来た、青髪鬼《せいはつき》!」  白髪をふりみだし、口からあわをふきながらくるいまわるきみわるさ。探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴進は、身の毛のよだつようなおそろしさを感じないではいられなかった。 「これはいけない。佐伯秘書《さえきひしよ》はころされ、万造さんが気がくるっては、いったい、この事件《じけん》は、どこから手をつけていったらよいのか……」  さすがの俊助も当惑《とうわく》したような顔色である。  それはさておき、御子柴進は、警官《けいかん》たちがごったがえしているへやから、そっとろうかへぬけ出した。警官たちの捜査《そうさ》のじゃまをしてはならぬと思ったからだが、もうひとつ、ほかに目的があったのだ。  樽井《たるい》記者が、さっき俊助に報告しているのを聞くと、すこしへんだと思われた。 「ぼくはあの窓《まど》からとびこむと、すぐに警官とふたりで、家中しらべてまわったんです。そのとき、げんかんも勝手口も、また、どのへやの窓という窓も、ぜんぶ、なかからげんじゅうにしまりがしてあったんです。それなのに、あやしい男もクモのすがたも、かげもかたちも見えませんでした。いったい、あいつは、どこからぬけだしたのでしょう」  進はいまそのことを考えていた。ひょっとすると青髪鬼は、まだこの家のどこかにかくれているのではあるまいか……。  そこで探偵小僧の御子柴進は、右往左往《うおうさおう》する警官たちのあいだをぬけて、そっと二階へあがってみた。家族のすくない万造の家は、さほどひろくはない。階下が五|間《ま》に二階が三間、それから、その上の、屋根うら部屋《べや》が物置きになっている。  階段をあがると二階のろうかには、さっき警官がつけていった電気があかあかとついていた。そして、そこから屋根うら部屋へあがっていく、せまい、きゅうな階段《かいだん》がついている。進は足音に気をつけながら、そっとその階段をのぼっていった。  階段をのぼると、そこはせまいろうかになっていて、ひくい天井《てんじよう》から、二十ワットぐらいのくらい|はだか《ヽヽヽ》電球がぶらさがっている。そして、そのかたわらに物置きのドアがあるのだ。  進はその物置きのドアに手をかけたが、とつぜん、ギョッとしたように息をのみこんだ。それから、あわててあたりを見まわすと、さいわい目についたのは、ろうかのすみに投げ出してある、やぶれソファである。  進はあわててそのうしろへ身をかくしたが、そのときだった。物置きのドアが、そろそろなかからあいたかと思うと、そうっとのぞいた男の顔……。  進はその顔を見たとたん、心臓《しんぞう》がとまってしまいそうなほどびっくりした。  それもそのはず、ロイドめがけをかけたその顔に、進は見おぼえがあったのである。それこそ、万造や月丘《つきおか》ひとみといっしょに、なぞの死亡《しぼう》広告を出された理学博士、神崎省吾《かんざきしようご》ではないか。  それにしても、神崎博士がどうしてこの家の、屋根うら部屋の物置きなどにかくれていたのだろう。見ると髪《かみ》はみだれ、ネクタイはゆがみ、洋服もほこりまみれである。  しかも、その顔つきのおそろしさ。階段《かいだん》の上に立って、じっと下のようすをうかがっているその顔は、異様《いよう》にねじれて、なんともいえぬほどきみがわるいのだ。  進は心臓《しんぞう》がガンガンおどるのを感じた。全身から、ねっとりとつめたいあせが吹《ふ》きだすのをおぼえた。  それというのも進は、もっともっとおそろしいことに気がついたからである。  神崎博士の、上着のポケットからはみ出しているのは、なんと、ふさふさとした、まっさおな髪《かみ》の毛ではないか。  わかった、わかった。それは青い髪のかつらなのだ。そして、そういうかつらを持っているからには、神崎博士こそ青髪鬼《せいはつき》なのではあるまいか。  あまりのおそろしさに進が、ふるえあがったひょうしに、ガタリといすが鳴ったからたまらない。  さっとふりかえった神崎博士は、ねこのように足音もなくとんできたかと思うと、 「あっ、こんなところに人が……」  しゃがれ声でそういいながら、いきなり、進の肩《かた》をつかんで、ずるずるとそとへ引きずり出した。その形相《ぎようそう》のおそろしさ。    白蝋仮面《びやくろうかめん》 「小僧《こぞう》!」  神崎《かんざき》博士はかみつきそうな顔色で、進《すすむ》をにらみながら、 「あのさわぎはなんだ。下ではなにを、あのようにさわいでいるんだ」 「それをあなたは知らないんですか。あなたが知らぬはずはない」 「なに? わたしが知らぬはずはないって?」 「そうです、そうです。古家万造《ふるやまんぞう》さんを殺そうとしたのはあなたでしょう。そして、警官《けいかん》が来たからここにかくれていたんでしょう?」 「な、な、なんだって? 古家万造を殺そうとした? そ、それじゃ万造は死んだのか」  神崎博士のおどろきが、あまり大きかったので、進も、ちょっとへんに思った。  それではこの人はほんとうに、万造が殺されかけたのを知らなかったのか。それとも、じょうずに、しらばくれているのか……。 「いいえ、古家さんはたすかりました。しかし、死んだもおなじです。あのひとは、気がくるってしまったんです」 「なに、気がくるってしまったと……?」  神崎博士はものすごい顔をして、グイグイと進の肩《かた》をゆすりながら、 「しかし、小僧《こぞう》。おまえはなぜわたしを犯人《はんにん》だと思うんだ。こんなところにかくれていたからか」 「いえ、そればかりではありません。あなたのポケットから青髪鬼《せいはつき》のかつらが……」 「なに、青髪鬼のかつら……?」  神崎博士はギョッとしたように、じぶんのポケットを見たが、すぐかつらをつかみだすと、悲鳴をあげて、床《ゆか》にたたきつけた。 「おれは知らん、おれは知らん、こんなかつらなど、見おぼえはない!」  神崎博士が、だだっ子みたいに、足ぶみをしているすきに、進はにげだそうとしたが、すぐにとっつかまってしまった。 「待て、小僧、にげることはならん。それから、声をたてると、しょうちせんぞ」  神崎博士は、きゅうに声をひそめて、 「それじゃ、万造を殺そうとしたのは、青い髪《かみ》をした男か」 「そうです、そうです。青い髪の男がこの家へ、はいるところを見たひとがあるんです。それから、古家さんの殺されかけたへやの窓《まど》に、そいつのかげがうつっていたんです」 「そして、いま下へ来ているのは警官《けいかん》だな」 「はい、おおぜい来ています」  神崎博士は、しばらくだまって考えていたが、きゅうに強く進の肩をゆすぶると、 「小僧、おれはなにも知らないんだ。だれかに|わな《ヽヽ》におとされたんだ。万造の代理だというやつから電話がかかって、すぐこの家へ来てくれということだった。そこでおれはやって来たんだ。晩《ばん》の七時ごろだった。ところが……おい小僧、聞いているのか」 「は、はい、聞いています」 「ところが、ここへ来てみるとだれもいないんだ。へんに思って書斎《しよさい》へはいると、デスクのうえに万造のおき手紙がおいてあった。すぐかえるから待ってくれというんだ。手紙のそばには、ウィスキーと葉巻きがおいてあった。そこで、ウィスキーを飲み、葉巻きをすっているうちに、おれは気がとおくなってしまったんだ。小僧、聞いているだろうな」 「は、はい、よく聞いています」 「よし、さて、それから気がつくと、おれは、この物置きのボロくずかごのなかにおしこめられていた。そこで、いま、びっくりしてとびだして来たところなんだ。だから……だから、万造を殺そうとしたのはおれではないし、おれは、そんなかつらなど見たこともない」 「しかし、それならなぜ下へおりていって、警官にそのことをいわないんです」 「いやだ! おれはいま警官にあいたくないんだ。おれはここからにげ出す。だから、小僧、あとで、いまのことを警官にいってくれ」 「に、にげ出すんですって?」 「そうだ。だから、小僧、しばらくきゅうくつな思いをさせるがしんぼうしろ!」  そういったかと思うと神崎博士、いきなり進の口にハンケチをおしこみ、声をたてさせないようにしておいて、ずるずると、首すじとって物置き部屋へひきずりこんだ。    深夜の自動車  ちょうどそのころ、下の部屋では、俊助《しゆんすけ》が探偵小僧《たんていこぞう》のすがたが見えないことに気がついていた。警官《けいかん》にきいてみると、二階へあがっていったようだということである。  そこで俊助も二階へあがってみたが、進のすがたはどこにも見あたらない。 「三階じゃないでしょうか。三階にも電気がついているようですから」  いっしょに来た樽井《たるい》記者のことばだった。 「よし、いってみよう」  三階へあがってきた俊助は、床《ゆか》に落ちている、ふさふさとしたものを見つけた。なにげなくそれをひろって見て、 「あっ、こ、こりゃ青い髪《かみ》のかつらだ」 「三津木《みつぎ》さん、それじゃさっきのやつは、かつらをかぶっていたんでしょうか」 「そうかもしれん。しかし、探偵小僧は……」  ふたりがあたりを見まわしているところへ、聞えてきたのはうめき声。 「あっ、ありゃなんだ!」 「三津木さん、このドアのなかからです」  ドアのなかはまっくらだったが、俊助が、かべをさぐってスイッチをひねったので、すぐ電燈《でんとう》がついた。見ると部屋《へや》のなかには、|がらくた《ヽヽヽヽ》道具がいっぱいつんであったが、うめき声は、そのがらくたの奥《おく》から聞えてくるのだ。 「三津木さん、あっちだ、あっちだ」  がらくたをかきわけていくと、いちばん奥に、ボロをいっぱいつめた大きなかごがおいてあった。そのボロをとりのけると下からあらわれたのは、さるぐつわをはめられて、たかてこてにしばられた探偵小僧。 「あっ、探偵小僧だ。だれがこんなことをしたんだ!」  いそいでさるぐつわをといてやると、 「神崎《かんざき》博士です! 三津木さん、神崎博士がいまその窓《まど》からにげ出したんです。すぐあとを追っかけてください」 「なに、神崎博士が……?」  その物置きには小さな窓がひとつある。それを開くとすぐ下に、二階の屋根が見えたが、いましもその屋根を四つんばいになっていくのは、いうまでもなく神崎博士。 「待て!」  俊助もすぐに窓からとびおりると、 「樽井《たるい》君、きみはこのことを下の警官《けいかん》たちに知らせてくれたまえ」 「三津木さん、ぼくもいきます」  いましめをとかれた探偵小僧も、ヒラリと窓からとびおりた。  さて、こちらは神崎博士、やっと屋根のはしまでにげてきたが、下を見ると七、八メートルもある高さ、とても、とびおりることはできない。しかも、あとから俊助と探偵小僧が追っかけてくるのだ。  進退《しんたい》きわまった神崎博士がむこうを見ると、へいごしに、となりの家の屋根が見えた。その間やく三メートル。しかし、となりの家は平屋《ひらや》だから、こちらよりだいぶ低いのだ。  神崎博士は五、六歩あともどりをすると、ぱっと反動をつけてとびおりた。そして、しゅびよく、となりの屋根へとびうつると、そこから地面へとびおり、すばやく植えこみのなかへもぐりこんだ。 「おまわりさん、あっちだ、あっちだ。となりの家へもぐりこみましたよ」  さけんでいるのは俊助である。それからドサッと音がしたのは、そっちの屋根へとびうつったのだろう。  神崎博士はむちゅうになって、植えこみのなかをもぐっていったが、とつぜん、くらやみのなかから手をつかんだものがある。 「あっ!」  思わずさけぼうとする博士の口をおさえて、 「しっ、だまってぼくについてきたまえ。おもてはあぶない、警官がやってくる」  ふしぎな男は博士の手をとり、植えこみをぬけると、境《さかい》のへいをのりこえてとなりへはいる。博士もあとからついていった。こうして博士は奇怪《きかい》な男に手をとられ、へいをのりこえ、垣根《かきね》をくぐって、むちゅうでにげていったが、やがてせまい坂へ出た。 「さあ、大いそぎだ。ぐずぐずしてると警官にとっつかまるぞ」  あいてにいわれるまでもない。あちこちにあわただしい警官の足音がきこえてくるのだ。  博士はふしぎな男のあとについて、坂を走りおりたが、見ると、坂の下には自動車が一台待っている。 「さあ、これに乗りたまえ」 「しかし、そういうあなたは……?」  見るとあいては帽子《ぼうし》をまぶかにかぶり、オーバーのえりを立てているので、見えるものといっては、ふたつの目ばかりである。 「そんなことはどうでもいい。はやくこれに乗りたまえ。ほら、警官《けいかん》の足音がする」  しかたがないので、乗りこむ博士のうしろから、ふしぎな男も乗りこむと、すぐに自動車は走りだした。  ふしぎな男は上きげんで、 「あっはっは、いったいだれが警官に追われているのかと思ったら、あんたは神崎博士ですね」 「そういうあなたは」 「ぼくかい、ぼくは白蝋仮面《びやくろうかめん》……」 「な、な、なんですって!」 「しずかにしたまえ。警官にとっつかまるよりましだろう。あっはっは!」  そういいながらポケットのなかから、神崎博士のよこっ腹《ぱら》へ、ぴったりとおしつけたのはピストルである。  まっさおになって、そのままだまりこんでしまった神崎博士と、怪盗《かいとう》白蝋仮面のふたりを乗せて、自動車は深夜の町をまっしぐらに……。    ふしぎな贈物《おくりもの》   さあ、翌日《よくじつ》の新日報はとぶような売れゆきだった。それはそうだろう。ほかの新聞は古家邸《ふるやてい》の怪事件《かいじけん》を、ほんのちょっぴりしか書いていないのに、新日報は社会面ほとんど全部を、この怪事件でうずめているのである。  日比谷《ひびや》公園の殺人事件——一メートルもあるおばけグモ——なぞの青髪鬼《せいはつき》——古家邸の怪事件——神崎《かんざき》博士の奇怪《きかい》な行動——しかも、いま大ひょうばんの怪盗白蝋仮面が、この事件に首をつっこんでいるというのだから、これほどすばらしい事件はなかった。  こうして、ほかの新聞社の知らない事件をさぐりだすのを、特ダネをつかむという。新聞記者として、すばらしい特ダネをつかむほど、大きな手がらはないのだが、こんどのばあい、それをさいしょにつかんだのは御子柴進《みこしばすすむ》だから、さあ、探偵小僧《たんていこぞう》は、いちやく社内の人気者、ヒーローになってしまった。 「やあ、探偵小僧、えらいぞ。すばらしい特ダネをつかんできたじゃないか」 「なあに、犬もあるけば棒《ぼう》にあたるですよ」 「あっはっは、けんそんするな。よしよし、いまにボーナスが出るからな、そしたら、おれたちにおごるんだぜ」  などと、ぬけ目のない人もいる。  それはさておき、警視庁《けいしちよう》はいうにおよばず、新日報社でもやっきとなって、青い髪《かみ》の男と神崎博士のゆくえをさがしたが、一週間たっても二週間たってもわからない。  だから、神崎博士が青髪鬼だったのか、それとも博士のいうとおり、だれかに罪《つみ》をなすりつけられようとしているのか、それもさっぱりわからなかった。  古家|万造《まんぞう》さえ正気でいたら、少しは事情《じじよう》がはっきりするのだろうが、その万造は気がくるって、うちに閉《と》じこめられているのだから、その口から聞くこともできないのだ。  こうしていたずらに三週間がすぎた。 「ねえ、三津木《みつぎ》さん、だいじょうぶですか」  ある日、探偵小僧が心配そうにいった。 「なにが……?」 「ひとみさんはおばあさんと、ただふたりで住んでいるんでしょう。もしや青髪鬼《せいはつき》が……」  月丘《つきおか》ひとみには両親がなく、秋子という祖母《そぼ》とただふたりで、中野に住んでいるということを、進はだれかに聞いていたのである。 「ああ、そのことならだいじょうぶ。あの晩《ばん》からひとみさんの家は、げんじゅうに警官《けいかん》が見はっているから、青髪鬼にしろ神崎博士にしろ、指一本ささせやしないさ」 「それなら、安心ですけれど……」  とはいうものの進は、やはり心配でたまらない。どういうわけで青髪鬼は、年はもいかぬ、かわいい少女をつけねらうのだろうと思うと、腹《はら》がたってくるくらいだった。  ところがそういう話をしているところへ、俊助《しゆんすけ》のところへ、受付から電話がかかってきた。 「三津木さん、ご面会です」 「どういうひと……?」 「月丘秋子さんというかたです」 「なに、月丘秋子さん!」  俊助はびっくりしたようにさけんだが、 「いや、ああそう。それじゃ応接室《おうせつしつ》……いや、ちょっと待て。それより編集《へんしゆう》局長の部屋《へや》へ、ご案内してくれたまえ」  電話を切ると俊助は、進と顔見あわせて、 「おい、探偵小僧。うわさをすればかげとやらだ。きみもおれといっしょに来い!」  山崎《やまざき》編集局長にわけを話して、待っているところへ、はいってきたのは、六十ばかりの上品なおばあさんだった。俊助はいままでになんども会っているらしく、 「いらっしゃい、おばあさん。ひとみさんがどうかしましたか」 「いえ、あの、そういうわけではございませんが、ちょっと心配なことができまして……三津木先生、これをごらんください」  秋子が、ふところから取り出したのは一通の手紙である。月丘ひとみ様とあて名だけであって、差出し人の名まえは書いてない。  なかを見ると、こんなことが書いてあった。 [#ここから1字下げ] 月丘ひとみ様 三月十五日はひとみさんの誕生日《たんじようび》ですね。毎年のとおり、ことしもおくりものをしようと思うのだけれど、つごうがわるくておくれない。すまないけれど、きみのほうから取りにきてください。十五日の晩《ばん》、七時きっかりに、銀座尾張町《ぎんざおわりちよう》の三越《みつこし》のまえで待っていてくれれば、おじさんのほうから出むきます。きっと、まちがえないように。 サンタのおじさんより。 なお、このことは、ぜったいにおまわりさんにいってはいけません。 [#ここで字下げ終わり]  それを読むと俊助は、思わず山崎編集局長や進と顔を見あわせた。 「おばあさん、ひとみさんの誕生日には、毎年おくりものがくるのですか」 「はい」 「だれがおくってくれるんです」 「それが、だれだかわからないんです」  一同はまた顔を見あわせた。 「いつごろからですか、それ……」 「ひとみの父がなくなったつぎの年からですから、ひとみの六つのときからです」 「ひとみさんのおとうさんというのは、どういう人でした?」 「それがよくわかりませんの。ひとみの祖母《そぼ》といいましても、ひとみの母がわたしの娘《むすめ》でしたから、ひとみの父のことはよくぞんじません。名まえは月丘|謙三《けんぞう》ともうしましたが」 「すると、ひとみさんのおとうさんがなくなられた翌年《よくねん》から、毎年ひとみさんの誕生日には、だれからともなく、おくりものがくるんですね」 「はい」 「そのおくりものとは、どんなものなんです」 「はい、あの、それが……いつもきまってダイヤモンドでした」 「ダ、ダ、ダイヤモンドですって!」  俊助はじめ一同は、思わずおどろきのさけびをあげた。 「おばあさん、そ、そして、そのダイヤモンドというのは、りっぱなものなんですか」 「そうだろうと思います。わたしはいつもそれを売って、一年の生活費にしていたのです。ひとみの父が、一文も財産《ざいさん》をのこしてくれなかったものですから……」  俊助はまたおどろきの目を見はった。  祖母と、まごのふたりきりとはいえ、ひとみの家にはお手伝いもおり、かなりよいくらしなのである。それをささえていくとすれば、よほど上等のダイヤモンドにちがいない。  そのとき、俊助や進のあたまに、さっとひらめいたのは青髪鬼《せいはつき》のもらした、大宝窟《だいほうくつ》ということばだった。  ひょっとすると、そのことと、なにか関係があるのではなかろうか。 「おばあさん、あなたは古家万造や神崎博士という人を、ほんとうに知らないんですか」  それはいままで、なんども切りだした質問《しつもん》だが、いま、俊助は、それをくりかえさずにはいられなかった。 「いいえ、ほんとうにぞんじません」 「ひとみさんのおとうさんから、そういう名まえを聞いたおぼえはありませんか」 「いいえ、いちども。謙三さんという人はいつも旅行がちで、めったに家にいない人でした。ひとみの母がなくなってから、いつもわたしとひとみがおるすばんで、たまにかえってきても、うちとけて話すこともございませんでしたから、あの人のことについては、わたしはほとんど、なにも知りませんの」 「なくなられたのはお宅《たく》で……?」 「はい、急性肺炎《きゆうせいはいえん》でした。ほんとにきゅうで……。十二月もおしつまったころでした。まえにももうしましたとおり、謙三さんは、一文も財産《ざいさん》をのこしてくれなかったので、幼《おさな》いひとみをかかえて、わたしはとほうにくれていたのですが、そこへ翌年《よくねん》の三月十五日に、どなたかダイヤモンドを、おくりものにくだすったので……」  俊助はまた、山崎編集局長や探偵小僧と顔を見あわせた。秋子はしずかに涙《なみだ》をふき、 「ねえ、先生、どうしたものでございましょう。悪いこととは思いながら、わたし、いつのまにかおくりものをあてにするくせがついてしまいまして、今年ちょうだいできないと、こまってしまいますの。とはいえ、ひとみをひとりで出してやってよいものやらわるいものやら……」  俊助はだまって考えていたが、やがて、きっぱりと、 「いいでしょう。おばあさん、この手紙のとおりにしてごらんなさい。ひとみさんはぼくたちで、きっとお守りしてみせますから」  しかし、ああ、そんなことをしてよいのだろうか。ひとみのゆくてには、恐《おそ》ろしい、わながしかけてあるのではないだろうか。    ふたり俊助《しゆんすけ》   さて、十五日の晩《ばん》のこと、三越《みつこし》のよこの暗いところに、人待ちがおに立っているひとりの少女は、いうまでもなく月丘《つきおか》ひとみ。新聞記者の三津木《みつぎ》俊助にはげまされて、ふしぎな手紙のいうとおり、今夜ここへ来たのである。  銀座《ぎんざ》の通りには、ネオンがしだいにあかるさをまし、あたりは織《お》るようなひとどおり。そのなかに、たったひとりで立っているひとみの胸《むね》は大きく不安にとざされていたが、それでも俊助や探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴進《みこしばすすむ》が、どこかで見まもっていてくれるというので、勇気をだして約束の時間を待っていた。  そのひとみからすこしはなれたところに、浮浪児《ふろうじ》みたいな少年が、ぼんやり地面にうずくまっている。ひとみは気がつかなかったが、その少年こそ探偵小僧の御子柴進だ。  さて、かどの服部《はつとり》の大時計が、約束の七時を報じたが、と、このとき、東銀座の方角からやってきた自動車が、ピタリとひとみの前にとまると、 「やあ、ひとみちゃん、待たせたね」  と、運転台からなれなれしく声をかける男の顔を見て、ひとみはびっくりしたように目を見はった。 「あら、三津木先生。どうしたんですの」 「あっはっは、なんでもいいから、この自動車にのりたまえ」 「あら、だって、それじゃ、あのお約束はどうするんですの」 「なあに、いいんだ、いいんだ。あとで話をするから、はやくこれに乗りたまえ」  と、運転台のドアをひらく男の顔を見て、あっと目をまるくしたのは進である。それもそのはず、運転台から身を乗りだしているのは、たしかに三津木俊助ではないか。  進はあわてて、むこうのかどに目をやったが、そこにも一台の自動車がとまっていて、窓《まど》からこちらをのぞいているのは、これまた三津木俊助なのである。  進は思わずいきをのみこんだ。  むこうにいるのも三津木俊助。いま目の前にいるのも三津木俊助。どちらがほんものかにせものか、見わけがつかぬほどよく似《に》たふたりに、進はあっけにとられていたが、そのうちに、はっと思いだしたのは、いつか山崎編集局長からきいた話であった。  俊助に化けて写真をうばってにげた白蝋仮面《びやくろうかめん》。——いま目の前にいるのは、その怪盗《かいとう》ではあるまいか。  そう気がつくと進は、そっと自動車のうしろにまわった。自動車のうしろには荷物をいれるところがある。さりげなくそれをひらく、いいあんばいになかはからっぽ。進はいそいで、あたりを見まわしたが、さいわい、そこはうすくらがり。だれも見ているものはいない。進はすばやく、そこへもぐりこんだが、ちょうどそのとき、ひとみも運転台にのりこんで、自動車はすぐに出発した。  むこうのかどに自動車をとめて、ようすをうかがっていた俊助も、それを見るとすぐにあとを、追いかけた。  こうして二台の自動車は、ほどよい間隔《かんかく》をたもちながら、町から町へと走っていった。やがて、人通りのない暗いさびしい道へさしかかったときだった。  うしろからやってきた一台のスクーターが、俊助の乗っている自動車のそばへ、するすると近よってきたかと思うと、  ズドン! ズドン!  とつぜん、ピストルが火をふいて、俊助の乗っている自動車は、二、三度大きくよろめいたのち、ガクンととまってしまった。スクーターに乗っている男が、かけぬけるときタイヤをめがけて、ピストルの弾丸《たま》を二、三発、ぶちこんでいったのだ。 「なにをする!」  この思いがけない襲撃《しゆうげき》に、俊助はおどろいて窓《まど》から身をのりだしたが、その鼻さきを、大きな風防めがねをかけた男が、スクーターに乗って、流星のようにすべっていったかと思うと、またたくうちに、そのすがたは闇《やみ》のなかに消えてしまった。    さて、こちらは探偵小僧の御子柴進である。きゅうくつな荷物入れ場に身をひそめて、自動車にゆられることやく半時間。どこをどう走っているのか、けんとうもつかなかったが、そのうちにスピードがおちてきたかと思うと、まもなく自動車はとまった。  どうやら目的地へついたらしい。  進がいきをこらしてようすをうかがっていると、自動車からおりた白蝋仮面《びやくろうかめん》とひとみが、なにかおし問答をしながら立ちさっていった。  その足音の消えていくのを聞いてから、進はその荷物入れ場のふたをひらいたが、そのときまた、だれかしのび足でこちらへ近づいてくるようすである。  進がギョッとして、ふたのすきまからのぞいていると、近づいてきたのは大きな風防めがねをかけた男なのだ。進は知らなかったが、この男こそ、さっき俊助の乗った自動車のタイヤに、ピストルの弾丸《たま》をぶちこんだスクーターの男なのである。  風防めがねをかけた男は、まさか、そんなところに、進がかくれていようとは気がつかず、自動車のかげに身をひそませて、じっとむこうを見ている。  ちょうどそのとき、月が雲間をはなれたので、進ははっきりあいての顔を見たが、そのとたん頭からつめたい水をぶっかけられたような、おそろしさを感じたのだった。  なんと、それはいつか日比谷《ひびや》公園であった、青髪鬼《せいはつき》ではないか。  わかった、わかった、青髪鬼はあくまでひとみをねらっているのだ。ひとみのあとを尾行《びこう》して、ここまでやってきたのだ。とちゅうで俊助の自動車をパンクさせたのも、俊助がいては、じゃまになったからだろう。  進はなんともいえぬおそろしさに、心臓《しんぞう》がガンガンおどりだしたが、そんなことは夢《ゆめ》にも知らぬ青髪鬼、しばらくあたりのようすをうかがったのち、ねこのように足音しのばせ、自動車のそばをはなれた。  その足音のきこえなくなるのを待って、進はそっと荷物入れ場からはいだすと、あたりを見まわしたが、そこは工場の構内《こうない》らしく、むこうに、れんがづくりの工場がみえ、こちらのほうには古ぼけた社屋が見える。  しかし、どこにも人のけはいはなく、白蝋仮面《びやくろうかめん》やひとみ、さては青髪鬼のすがたも見あたらない。あたりはしーんと、海の底のようにしずまりかえっているのだ。  それにしても、いったい、ここはなにをつくる工場だろう……。  そう考えた進は、ものかげづたいに、そっと社屋の正面へまわってみたが、見るとそこには、『東洋ガラス製造《せいぞう》会社』と書いた|かんばん《ヽヽヽヽ》がかかっている。  すると、ここはガラス工場らしいのだが、白蝋仮面はなんだって、こんなところへひとみをつれこんだのだろう……。  進がふしぎそうに、小首をかしげているところへひとの足音がきこえてきたので、あわててものかげへかくれていると、社屋のなかから出てきたのは、白蝋仮面とひとみだった。さらにそのあとにつづいた人物を見て、進は思わず目を見はった。  なんと、それはこのあいだ古家邸《ふるやてい》から逃《に》げだした、神崎《かんざき》博士ではないか。  白蝋仮面と神崎博士は、あたりのようすをうかがいながら、しばらく立ち話をしていたが、やがて構内《こうない》をつっきって、むこうに見えるれんがづくりの工場へはいっていった。むろんひとみもいっしょだった。  進はなおしばらく、青髪鬼のすがたは見えないかと、ものかげに身をかくしたままようすをうかがっていたが、青髪鬼はどこにいるのかすがたも見えない。  そこで進は三人のあとを追って、工場へはいろうとしたが、なにを思ったのか、もういちど自動車のそばへひきかえすと、ポケットから取りだしたのは小さなビンである。ビンのなかにはなにやら黒い液体《えきたい》がはいっている。  進はその液体を、点々と地上にたらしながら、工場のなかへはいっていった。  工場のなかはまっくらだったが、どこかでゴーゴーとものすさまじい音が聞える。その物音をたよりに進んでいくと、まもなく鉄のドアにつきあたった。ゴーゴーというあの音は、そのドアのむこうからきこえるのだ。  進は思いきって、小型の懐中電燈《かいちゆうでんとう》を取り出すと、あたりをしらべてみたが、それでわかったことは、この工場は二重かべになっていることである。外部のかべのなかに、もうひとつ、がんじょうなれんがのかべがめぐらせてあり、そこに鉄のドアがついているのだ。進は、そのドアをおしてみたが、かぎがかかっているらしく、びくともしなかった。  進があきらめて、かべにそって歩いていくと、ところどころ小さな窓《まど》があいていて、どの窓も紫色《むらさきいろ》のガラスがはまっている。  それは外から、ガラスのできるところを視察《しさつ》するための窓なのだが、灼熱《しやくねつ》しているガラスを肉眼で見ると、目がつぶれるうれいがあるので、紫色のガラスがはめてあるのだ。  進はそんなこととは知らなかったが、これさいわいと窓からなかをのぞいてみて、思わずアッといきをのみこんだ。    ダイヤの宝庫《ほうこ》  窓の内部は二、三十|坪《つぼ》ほどの、長方形の広場になっており、四方も床もれんがでかためてあるなかに、十|坪《つぼ》もあろうという、大きなプールがきってある。  そして、そのプールのなかでゴーゴーと、すさまじい音を立ててにえくりかえっているのは、まっかにやけただれたガラスなのだ。  ガラスはまるであめのように、ブツブツ、グラグラとたぎりたっているのである。そして、その表面からもえあがる、まっかなほのおとともに、強いガスのにおいがした。  はじめて、そういう光景を見る進にとっては、それはまるで地獄釜《じごくがま》のようなおそろしさだった。  進はしばらくあっけにとられて、そのおそろしい地獄の釜を見ていたが、やがて気をとりなおすと、それにしても三人は……と、あたりを見まわしているところに三人の姿《すがた》がプールのふちにあらわれた。  見ると三人とも紫色のめがねをかけ、俊助に化けた白蝋仮面《びやくろうかめん》と神崎博士はしきりになにか話をしている。そして、そのそばには、ひとみがおそろしそうにふるえているのだ。  それにしても白蝋仮面と神崎博士は、いったいなんの話をしているのだろう。あついれんがのかべと、地獄の釜のたぎる音にさえぎられて、進にはなんにも聞えなかったが、われわれはそっと、ふたりの話を聞いてみようではないか。 「さあ、神崎博士、きみの註文《ちゆうもん》どおりにわれわれは、このおそろしい地獄の釜のふちまでやって来た。きみはまさかこのおれを釜のなかへつきおとして、殺そうというのじゃないだろうね」  そういったのは白蝋仮面、紫色のめがねのおくから、用心ぶかい目をひからせている。 「と、とんでもない。ぼくはただ、だれにも話をきかれたくないからだ。ここならぜったいに、立ちぎきされる心配はないからね」 「よしよし、わかった。しかし、ひとみちゃん気をつけろよ。この釜のなかへおちたがさいご、一しゅんにして命はないぜ。からだがとけてガラスになっちまう。あっはっは、ガラスのお化けになっちゃつまらないからね」  ひとみはあまりのおそろしさに、さっきから気がとおくなりそうな顔色をしている。白蝋仮面は神崎博士のほうにむきなおり、 「じょうだんはさておいて、それでは先生、話を聞こうじゃありませんか。あなたはこのあいだ、ひとみさんをつれてきてくれれば、いっさいの秘密《ひみつ》をぶちまけるといいましたね。さあ、ひとみさんはここにいる。そして、あたりには立ちぎくものもない。約束どおり、なにもかもうちあけてもらおうじゃありませんか。神崎博士、大宝窟《だいほうくつ》とはいったいなんだ。いったい、それはどこにあるんだ」  神崎博士はなにかいおうとしたが、いざとなると気おくれがするらしく、そのまま口ごもってしまった。  白蝋仮面《びやくろうかめん》はせせら笑って、 「あっはっはっは、よほどいいにくいと見えるな。よしよし、それではしゃべりやすいようにしてやろう。神崎博士、この男はだれだ。このミイラみたいな顔をした男はいったいだれだ」  白蝋仮面がとりだしたのは、いつか新日報社からうばってきた写真の一|枚《まい》。あの青髪鬼《せいはつき》の写真である。  神崎博士はそれを見ると、悲鳴をあげてうしろへよろめいた。 「そ、そ、それは鬼塚三平《おにづかさんぺい》という男なんだ!」 「鬼塚三平……? 鬼塚三平とは何ものだ。どういうわけで、こいつが、きみたちをつけねらうんだ」 「そいつは……そいつは……昔、わたしたちのなかまだったんだ」 「わたしたちとはいったいだれだ。きみと古家万造《ふるやまんぞう》のことか」 「そうだ。それにひとみさんのおとうさんの月丘謙三《つきおかけんぞう》、この四人が昔のなかまだったんだ。われわれ四人は、富をもとめていろいろ冒険《ぼうけん》をともにしたが、そのうちにそのうちに、ひとみさんのおとうさんが、すばらしい宝《たから》を発見したんだ」 「すばらしい宝とはいったいなんだ。いったいどんなものなんだ!」  紫色《むらさきいろ》のめがねのおくで、白蝋仮面の目が鬼火《おにび》のようにひかっている。 「それは……それは……」  と、神崎博士はぜいぜい肩《かた》でいきをしながら、 「世界中の富《とみ》を一手ににぎるほどの、すばらしい宝なんだ。それは……それは……ダイヤモンドの大宝庫《だいほうこ》なんだ!」 「ダイヤモンドの大宝庫だって!」  さすがに白蝋仮面もびっくりしたようにさけび声をあげた。 「そして、そして、それはどこにあるんだ」  しかし、それには神崎博士も答えなかった。白蝋仮面ののどのおくが、かすれたような笑い声をあげると、 「よしよし、それはいずれあとで聞くことにしよう。それより、このミイラみたいな男、鬼塚三平はなんだって、きみたちをつけねらっているんだ」 「それは……それは……いや、それよりひとみさんのおとうさんが、なくなったときから話をしよう」  神崎博士はあやまるような目で、ひとみさんのほうを見ながら、 「ひとみさんのおとうさんは、すばらしい宝を発見した直後に死んだんだ。しかもそのことを、だれにもいっておかなかったので、ひとみさんのおばあさんも、ひとみさんもそれを知らなかった。もし知っていて、その宝庫を手にいれたら、ひとみさんは世界一の大金持ちになるところだったんだ」 「それをきみたちが横どりしたのか」 「ああ、いや、そ、そういうわけではないが……」  と、神崎博士はひたいににじむ汗《あせ》をぬぐいながら、 「わたしはそれを、ひとみさんにわたそうと思った。しかし、古家万造がどうしてもそれをきかなかったんだ。ひとみさんのような子どもにわたしたら、いずれきっと、わるものに、横どりされてしまうだろう。それよりひとみさんが大きくなるまで、じぶんたちが管理しようじゃないかと、わたしを説きふせたんだ。ところが、鬼塚三平だけがどうしてもそれをきかなかった。大宝庫をひとみさんにかえすのが、ほんとうだといいはったんだ」 「それでどうしたんだ。きみたちで鬼塚三平をどうかしたのか」 「わたしは……わたしはなにもしなかった。しかし、古家万造が三平をとらえて、コバルト鉱山《こうざん》へ送ってしまったんだ」 「コバルト鉱山だって……」 「そうだ。そのじぶんからわたしは、このガラス工場を経営《けいえい》していたが、ここではコバルト・ガラスを作っている。その原料にするために、われわれはコバルト鉱山を持っているんだ」 「そのコバルト鉱山というのはどこにあるんだ」 「マレー半島の奥地《おくち》にある」 「マレー半島の奥地だって?」  白蝋仮面も目を見はった。 「そうだ。そこには一メートルもあるクモがうようよするほどいるんだ。鬼塚三平はその鉱山に送られて、どれいみたいにこきつかわれていたんだ」 「あっはっは!」  白蝋仮面はものすごい笑いをあげると、 「つまりそうしてきみたちは、じゃまものをかたづけておいて、大宝庫を横どりしたんだな」 「ちがう、ちがう、わたしはそのつもりじゃなかった。みんな古家万造のやったことなんだ。わたしは気がとがめてしかたがなかったので、毎年ひとみさんの誕生日には、ダイヤモンドを送っていたんだ」 「なるほど、ところが、そこへ鬼塚三平がかえってきたんだな」 「そうだ。あいつはとうとうコバルト鉱山を脱出《だつしゆつ》した。そして、ひどいくろうと熱病のためにミイラみたいになってかえってきたんだ。しかも髪《かみ》の毛はコバルトの気をすって、まっさおになっていた。あいつは鬼《おに》になったんだ。生きながら復讐《ふくしゆう》の鬼となり、われわれのみならず、ひとみさんまで殺して、大宝庫をひとりじめにしようとしているんだ」 「その大宝庫《だいほうこ》はどこにあるんだ。おい神崎博士、その大宝庫というのは、もしやこの写真ではないか」  白蝋仮面《びやくろうかめん》がとり出したのは、青髪鬼の写真とともに、新日報社からうばってきた、烏帽子《えぼし》のような岩の写真である。  神崎博士はそれを見ると、思わずまっさおになった。 「あっはっは、やっぱりこれが大宝庫だな。おい、神崎博士、この岩はどこにあるんだ。この海岸はいったいどこだ」 「それは……それは……」  口ごもっている神崎博士めがけて、白蝋仮面はヒョウのようにおどりかかった。 「さあ、いえ、神崎博士、大宝窟はどこにあるんだ。すなおにそれを白状《はくじよう》しないと……」  ぐいぐいのどをしめつけられて、神崎博士は苦しそうな声をあげた。 「いう。……いうからそこをはなしてくれ」 「よし!」  白蝋仮面が手をはなすと、神崎博士はよろよろしながら、のどのあたりをなでていたが、そのときだった。  ガチャンとガラスのわれる音。それにつづいてズドンと一発、ピストルの音。  と、同時に神崎博士は、 「わっ!」  と、さけんで胸《むね》をおさえると、よろよろうしろによろめいたが、つぎのしゅんかん、すべるように、たぎりたつ地獄《じごく》の釜《かま》へおちていったのだ。    怪物《かいぶつ》対|怪盗《かいとう》 「しまった!」  と、さけんだ白蝋仮面、あわてて、ひとみを床《ゆか》にたおすとパッとその上に身をふせて、あたりのようすをうかがった。しかし、襲撃《しゆうげき》はただそれきりで、聞えてくるのは壁《かべ》の外を、小きざみににげていく足音。  白蝋仮面は身をおこすと、ガラスのプールをのぞいたが、そこにはもう、神崎《かんざき》博士のかげもかたちもなく、たぎりたつ液体《えきたい》ガラスが、ブツブツと青白いガスをあげているばかり。さすがの怪盗《かいとう》白蝋仮面も、思わず、ぞっと身ぶるいした。 「ちくしょう!」  いま一歩というところで、大宝庫のありかを聞きもらしたくちおしさ! 「ひとみさん、来たまえ」  と、白蝋仮面は、いかりの形相《ぎようそう》ものすごく、ガラス工場をとび出したが、こちらは探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴進《みこしばすすむ》である。  たぎりたつガラスのプールへ転落する神崎博士のすがたを見たときは、全身の血もこおるばかりのおそろしさだったが、はっと気をとりなおすと、いちもくさんに工場からとび出した。  そして、まずやってきたのは、白蝋仮面《びやくろうかめん》の乗ってきた自動車のそば。なにをするのかと思っていると、ポケットから取りだしたナイフで、プスプス、タイヤをつきさした。 「これでよし。こんどは、もう一つのやつだ」  門をとび出すと、そこにははたして、青髪鬼《せいはつき》の乗ってきたスクーターがおいてあった。進はそれを見ると、これまたタイヤを、めちゃくちゃに切りきざんでしまった。  そうしておいて進は、すばやくものかげにかくれると、ポケットから取りだしたのは、黒い液体《えきたい》のはいった小ビン。進は、その液体を、くつの底へいっぱいぬりたくった。なんのまじないかわからないが、とても強いにおいのする液体である。  さて、そのあとで進が、ものかげからようすをうかがっているところへ、とび出してきたのは青髪鬼。見ると、まだ煙《けむり》の立っているピストルをにぎっている。  青髪鬼は門から外へとび出すと、スクーターに乗ろうとしたが、タイヤがずたずたに切りさかれているのを見ると、いかりにみちたさけびをあげ、身をひるがえしてかけよったのは、白蝋仮面の自動車のそば。しかし、その自動車もタイヤがパンクしているのを見ると、さすがの怪物《かいぶつ》青髪鬼も、思わず立ちすくんでしまったが、そこへとび出してきたのが、白蝋仮面とひとみだった。月の光に青髪鬼のすがたを見つけると、さっとものかげに身をひそめて、 「待てっ」  とさけんで、ズドンと一発、青髪鬼もあわてて自動車のかげにかくれると、これまたピストルのおうしゅうである。  こうして、まひるのような月光のもと、青髪鬼対白蝋仮面、いずれおとらぬ怪物対|怪盗《かいとう》の、ものすごいうちあいがしばらくつづいていたが、そのうちにあっとさけんだ青髪鬼は、ポロリとピストルをおとした。どうやら、右手に弾丸《たま》があたったらしいのだ。 「ちくしょう!」  あわてて左手でピストルをとりあげた青髪鬼は、自動車のかげからとび出すと、ヘビのように工場の構内《こうない》をよこぎって、とびこんだのは、倉庫のような小さな建物。  それを見ると白蝋仮面も、ひとみの手をひいて、建物のそばへかけよったが、そこへとび出してきたのが進である。 「あっ、御子柴《みこしば》さん!」  さっきからのおそろしいできごとに、生きたここちもなかったひとみは、進のすがたを見ると、地獄《じごく》で仏《ほとけ》にあったような気持になった。 「ああ、きさまは探偵小僧《たんていこぞう》だな。そうか、タイヤをパンクさせたのはきさまだったのか。あっはっは、なかなか気てんがきくやつだ。とにかくいっしょにこい!」  青髪鬼というおそろしい共同の敵《てき》をひかえて、白蝋仮面《びやくろうかめん》と探偵小僧、いちじ攻守同盟《こうしゆどうめい》をむすんだかたちだった。  三人は、ゆだんなく倉庫のなかへはいっていったが、これはどうしたことだろう。倉庫のなかはもぬけのから、青髪鬼のすがたはどこにも見えないのだ。 「そんなはずはない。あいつは、たしかにここへとびこんだんだ。どこかにかくれているにちがいない。探偵小僧、さがしてみろ」  白蝋仮面はものすごいけんまくだが、どこにもかくれるような場所はない。せまい倉庫は、ガランとして、なに一つなく、窓《まど》にもげんじゅうな鉄格子《てつごうし》がはまっている。それにもかかわらず、青髪鬼はかげもかたちも見えないのである。 「ちくしょう。それじゃこの倉庫には、きっと抜《ぬ》け穴《あな》があるにちがいない。しらべてみろ!」  進は、いまさらにげだすわけにもいかず、懐中電燈《かいちゆうでんとう》で床《ゆか》をしらべていたが、 「あっ、こんなところに血がたれている!」 「なに、血が……」  見ると、なるほど床の上に、点々として血がたれていた。その血をつたっていくと、倉庫のすみでふっと消えてしまった。  白蝋仮面は目をひからせて、 「よし、ここが抜け穴の入口にちがいない」  白蝋仮面がゆか板を持ちあげると、はたしてまっくらな穴があいている。そして穴のなかには垂直《すいちよく》に、鉄ばしごがついているのだ。 「おい、探偵小僧。きさま、さきへはいれ」 「えっ、ぼ、ぼくが……」 「そうだ、おれもいっしょにいくから、なにもこわいことはない。将来《しようらい》はいざ知らず、いまのところは、おまえとおれとは仲間だからな。あっはっは」  ピストルをつきつけられてはしかたがない。探偵小僧はしぶしぶと、ぬけあなのなかへもぐりこんだ。白蝋仮面もそのあとから、ひとみの手をとってつづいた。  鉄ばしごをおりると地下のトンネル。どうやらそれは倉庫のなかへ、荷物をはこびこむためにつくったものらしく、コンクリートづくりの、りっぱなものだったが、そのトンネルの床にも、点々として血がつづいているのだ。 「よし、これをつけていけばいい」  こうしていくこと約五十メートル。トンネルはそこで、二またにわかれていたが、左の道がいままでどおりの広さに反して、右の道はせまくて、きゅうくつで、しかもだいぶひくくなっているらしく、十|段《だん》ばかりの石段がついている。血のあとは、その石段をつたって、せまいトンネルへおりていた。 「よし、探偵小僧、この階段をおりていけ」 「ああ、御子柴さん、もうよして。……あたし、なんだかこわくって……」  ひとみはいまにも泣き出しそうだったが、白蝋仮面《びやくろうかめん》がうしろから、ピストルをつきつけているので、どうすることもできない。進は、こわごわ石段をおりていった。ひとみも白蝋仮面におどかされて、まっさおになってつづいた。  さて、石段をおりて、四、五メートルもいったかと思うと、コンクリートでかためた、せまい四角なへやへつきあたったが、三人が、なにげなくそのへやへふみこんだせつな、ガラガラガラ! と、ものすごい音をたてて、天井《てんじよう》から落下してきた鉄の扉《とびら》が、ピタリと入口をふさいでしまったではないか。 「しまった!」  と、三人はあわててひきかえそうとしたが、おせども引けども鉄の扉《とびら》の動かばこそ。千|鈞《きん》の重みをもって、三人の退路《たいろ》をたってしまったのだ。 「しまった! しまった! |あんちくしょう《ヽヽヽヽヽヽヽ》。まんまと、わなにおとしゃがった!」  白蝋仮面が、やっきとなって、鉄の扉をたたいているときだった。どこからともなく、やみのそこから聞えてくるのは、きみのわるい笑い声。 「キャッ!」  と、ひとみは悲鳴をあげて、進にすがりついた。進もギョッとして、懐中電燈《かいちゆうでんとう》であたりを見まわしたが、だれのすがたも見えない。しかもなお、 「うっふっふ、うっふっふ!」  と、きみのわるい笑い声はつづくのだ。進は気がついて、懐中電燈を天井へむけたが、そのとたん三人は、からだじゅうしびれるようなおそろしさを感じた。  天井の四角な穴《あな》から、じろじろとこちらをのぞいているのは、あのおそろしい青髪鬼《せいはつき》ではないか。 「お、おのれ!」  白蝋仮面は、いかりにまかせてとびあがったが、床《ゆか》から天井まで五メートルあまり、むろん、とどくはずはない。 「うっふっふ! うっふっふ!」  青髪鬼は、きみのわるい声をあげると、 「とうとうわなに落ちゃがった。やい、白蝋仮面、そこがなんのへやだか知ってるか。そこはな、いったん落ちこんだがさいご、二度と生きて出ることはできぬ死のへやじゃぞ。うっふっふ、あっはっは。かわいそうだが、ひとみも探偵小僧も、いまのうちに神や仏《ほとけ》においのりでもしておくがいい」  それだけいうと青髪鬼は、ピタリと天井の穴をふさいでしまった。    死の部屋  さすがの白蝋仮面《びやくろうかめん》も、しばし、ぼうぜんと天井《てんじよう》をながめていたが、はっと気をとりなおすと、またもや鉄の扉《とびら》に突進《とつしん》した。 「ちくしょう、ちくしょう。探偵小僧、なにをぼんやりしているんだ。きさまも手つだって、このドアをひらくんだ」  しかし、おせどもつけども、鉄の扉はびくともしない。やっきとなって、たたいたり、からだをぶっつけたりしているうちに、ふたりともへとへとになってしまった。 「ちくしょう、この扉がひらかぬとすれば、ほかから抜《ぬ》け出すよりほかはないが……」  しかし、コンクリートでかためたこのへやは、四メートル四方ばかりの、箱のような殺風景なへやで、入口といっては、いま鉄の扉のしまっているところよりほかにはないのだ。  ただ一つ、天井の穴《あな》があることはあるが、五メートルあまりもあろうという天井へ、どうして手がとどくわけがあるだろう。コンクリートの壁《かべ》には、どこにも手がかり、足がかりとなるものはない。 「ああ、それじゃ、あたしたち、このへやから出ることはできないの」  ひとみはしくしく泣きだした。進も、さっき青髪鬼《せいはつき》のいったことばを思いだして、ぞっと身ぶるいをした。 「いったん、そこへ落ちたがさいご、二度と生きては出られぬ死のへやだ……」  青髪鬼はそういったではないか。  それではあいつは、じぶんたちが、ここでうえ死にするのを待つつもりなのだろうか。いやいや、それより、もっと手っとりばやく、殺す方法を考えているのではあるまいか。 「あっ、あの音はなんだ」  とつぜん白蝋仮面《びやくろうかめん》がさけんだが、それと同時に、 「あっ、水よ、水よ、あんなところから水が……」  と、悲鳴《ひめい》のようにさけんだのはひとみである。見れば、なるほど床《ゆか》の穴《あな》から、ものすごいいきおいで、水がふきあげてくるのだ。 「しまった! しまった! ちくしょう!」  白蝋仮面は、やっきとなって、その水をおさえようとしていた。進もはっと気がつき、上着をぬいで、それでせんをしようとしたが、ものすごい水勢《すいせい》におされて、とてもそれどころではない。  死にものぐるいで、ふたりが奮闘《ふんとう》しているうちにも、水かさはどんどんまして、へやのなかは、はやくも、くるぶしからひざのあたりまで、水びたしになってしまった。  ああ、わかった、わかった。ここは水攻《みずぜ》めのへやなのだ。青髪鬼は、ここで三人を水攻めにして殺すつもりなのである。 「ああ、それじゃあたしたち、ここで水におぼれて死ぬの? いやだ、いやだ。どぶねずみみたいになって死ぬのいやだ」  ひとみは気が狂ったようにさけびながら、進にすがりついた。 「だいじょうぶ、だいじょうぶ。ぼくたち死にゃしない。いまに三津木《みつぎ》さんが助けに来てくれる。気をしっかり持っていなきゃだめだ」 「ああ、そうだったわ。三津木先生が、わたしを守ってくださるお約束だったのね。ごめんなさい、あたし、苦しくてもがまんするわ」  ふたりが、はげましあっているかたわらから、白蝋仮面が、どくどくしく笑いながら、 「あっはっは、俊助がいかに神通力を持っていようとも、こうなったらもうだめだ。おまえたち、ここでおれといっしょに死ぬのだ。おたがいに道づれがあって、にぎやかでいいや」  白蝋仮面は、もうかくごをきめたのか、懐中電燈《かいちゆうでんとう》を水のなかへ投げすてたので、あたりはまっくらになった。  そのくらやみのなかから聞えてくるのは、ただゴウゴウと水のふきあげる音ばかり。ひとみも探偵小僧も、もう腹《はら》から胸《むね》のあたりまで水につかっている。 「み……御子柴さん!」 「ひとみさん、だいじょうぶ、だいじょうぶ。しっかりぼくにつかまっておいで。いまに、きっと三津木さんが……」  ああ、おそろしい死のへや、ゴウゴウとうずまく水にもまれて、ふたりは、しっかりくらやみのなかでだきあっていたが、そのうちにも、水は情《なさけ》ようしゃもなく、どんどんふえて、もうひとみの首から口のへんまでやってきた。 「み……御子柴さん……あたし……もうだめだわ」  ひとみはすすり泣くような声をのこして、ぐったりと、進のうでのなかで、気をうしなってしまった。    ネロの活躍《かつやく》  こうして、御子柴進《みこしばすすむ》とひとみのふたりが、おそろしい災難《さいなん》にあっているころ、一方、三津木俊助《みつぎしゆんすけ》は、どうしていただろうか。  それを話すためには、物語を、すこし前へもどさなければならない。  青髪鬼《せいはつき》にタイヤをうちつらぬかれた俊助は、もうそれ以上、前の自動車をつけていくことはできなくなった。しかし、俊助はあわてもせず、自動車からとびおりると、 「樽井《たるい》君、ネロを……」  と、自動車のなかへ声をかけると、 「オーケー」  と、とび出して来たのは樽井記者。見ると、たくましいシェパードをつれている。 「探偵小僧《たんていこぞう》が、あの自動車のうしろへもぐりこんだから、きっとうまくやってくれると思うんだが……ネロ、ほら、これだ」  と、俊助がポケットから取りだしたのは、探偵小僧が持っていたのと同じような、黒い液体《えきたい》のはいった小ビンだった。そのせんをとって、しばらくネロにかがせていたが、 「よく、このにおいをおぼえておくんだぞ。ほら、ここらあたりに、これと同じにおいがしないか、ひとつかいでみてくれ」  ネロはしばらく、クンクン、そのへんをかいでいたが、やがて、四つ足をふんばって、樽井記者をひきずるように前進した。 「しめた! 三津木さん。探偵小僧《たんていこぞう》め、どうやらうまくやったらしいですぜ」 「うん、あいつは、ぬけめのないやつだから」  わかった、わかった。探偵小僧の持っていた小ビンのなかには、特殊《とくしゆ》なにおいのする液体《えきたい》がはいっていたのだ。そして、それを自動車のなかから、みちみち、路上へたらしていったのである。  こうしておけば、あとから追跡《ついせき》してくる俊助の自動車に、とちゅうで故障《こしよう》がおこっても、ネロの鼻が、いくさきを、かぎわけてくれるわけである。  それはさておき、俊助と樽井記者が、ネロの案内でやっとたどりついたのは、隅田川《すみだがわ》をむこうへわたった、河岸《かし》っぷちに建っている工場の前。見ると工場の門柱には、『東洋ガラス製造《せいぞう》会社』と、書いた札《ふだ》がかかっている。 「おやおや、へんなところへやって来たな。ネロ、まちがいじゃあるまいな」  しかし、ネロはふりむきもせず、ぐんぐん工場のなかへはいっていった。見ると工場のなかには、一台の自動車。 「あっ、樽井君、これはたしかにひとみさんを乗っけていった自動車だね」 「そうだ、それにちがいありません。しかし、探偵小僧やひとみさんはどこへいったのかな。あっ、三津木さん、この自動車のタイヤ、ずたずたに切りきざんでありますぜ」  それを見ると俊助は、ふっと不安におそわれた。 「おい、ネロ、しっかりしてくれよ。探偵小僧はどこへいったんだ」  ネロは、しばらくそのへんをかいでいたが、やがてガラス工場のなかへはいっていった。  しかし、すぐまたそこから出てくると、ふたりを案内していったのは、ガランとした倉庫のなか。しきりに床板《ゆかいた》をひっかくのを見て、 「あっ、ここに抜《ぬ》け穴《あな》があるらしい。探偵小僧は抜け穴のなかへはいっていったんですぜ」 「よし! われわれもはいってみよう」  俊助の胸《むね》には、いよいよ不安がたかまってきた。探偵小僧は、なんだって、抜け穴のなかへなどはいっていったのだろう。  トンネルのなかはまっ暗だったが、俊助も樽井記者も、懐中電燈《かいちゆうでんとう》の用意はしていた。ネロを先頭に立てて、暗いトンネルを進んでいくと、やがてたどりついたのは、二またになっている、あのわかれ道の近くである。  そこまでくると、とつぜんネロが、 「う、う、う……」  と、するどいうなり声をあげた。 「どうした、ネロ。なにかあるのかい」  ネロは、そういうことばを耳にも入れず、いよいよ強く足をふんばって、前方のやみにむかって、いかりにみちた、うなりをあげている。 「樽井君、気をつけろ。なにかあるらしいぞ」  俊助のそのことばもおわらぬうちに、右がわのトンネルから、石段《いしだん》をかけのぼって、コウモリのようにとび出して来たひとつのかげ。 「だれか!」  俊助と樽井記者は、同時にさっと懐中電燈《かいちゆうでんとう》をむけたが、そのとたん、ふたりとも、思わずあっと立ちすくんだのだ。  懐中電燈の光のなかに、くっきりうきあがったのは、まぎれもなく青髪鬼《せいはつき》!  だが、それもほんの一しゅんのこと。つぎのしゅんかん、青髪鬼は左手に持ったピストルを、やにわに二、三発ぶっぱなすと、身をひるがえして、左がわの道をにげていった。 「待てっ!」  俊助と樽井記者は、前後のふんべつもなく、そのあとを追っかけていった。  いま青髪鬼のとび出してきた、せまいトンネルのおくで、探偵小僧やひとみが、いまや、危険《きけん》におちいっていることも知らずに。……    月下の追跡《ついせき》  トンネルのなかはまっくらである。俊助《しゆんすけ》や樽井《たるい》記者のふりかざす懐中電燈の光も、そうとおくまではとどかない。それにうっかり懐中電燈の光を見せると、それを目あてにうってくるので危険なのだ。 「三津木《みつぎ》さん、いけない。懐中電燈をけしましょう」 「うん、しかたがない」  懐中電燈をけしてしまうと、それこそ、鼻をつままれてもわからぬようなくらがりだった。そのくらがりのなかを青髪鬼は、風のように走っていく。よほど、この地下道の地理に、くわしいやつにちがいない。 「ネロ、たのむぞ。こうなったらおまえの鼻だけがたよりだ」  ネロはなんにもいわなかったが、クンクン鼻をならしながら、くさりをひっぱって前進した。くさりをはなしてやれば、ネロのあしなら、青髪鬼《せいはつき》に追っつけるかもしれないが、そのかわり、あいてのピストルにうちころされるかもしれないのだ。  トンネルのなかには、いくつかわき道があった。ネロはそういうわかれ道へくるたびに、クンクンそこらをかぎまわったのち、またくさりをひっぱって前進した。 「ネロ、だいじょうぶだろうな。まちがっちゃたいへんだぞ」  まえを見てもうしろを見ても、うるしでぬりつぶしたようなまっくらがりのそのなかを、ネロの鼻だけをたよりにして、やみくもに前進していくのだから、その心ぼそさといったらない。いつのまにか青髪鬼の足音も聞えなくなっていた。 「三津木さん、もうだいじょうぶでしょう。懐中電燈《かいちゆうでんとう》をつけてみましょうか」 「あっ、ちょ、ちょっと待ちたまえ」 「えっ、ど、どうかしましたか」 「むこうに見えるの、あかりじゃない?」  なるほど、うるしのやみのはるかかなたに、ぼやっとうすあかりが見えている。 「あっ、三津木さん、あかりです、あかりです。きっと出口へ来たんですよ」 「よし、いそごう」  ふたりが足をはやめたときだった。うすあかりのなかから、チラッと横切るかげが見えた。 「あっ、青髪鬼のやつだ!」 「三津木さん、いそぎましょう」  むこうにあかりが見えてきたので、前進するのもよほど楽である。ネロをせんとうに立てて俊助と樽井記者が、大いそぎで走っていくと、むこうのほうから聞えてきたのは、ダ、ダ、ダ、ダというエンジンの音。 「しまった、ちくしょう。自動車でにげるつもりだな」 「三津木さん、ネロをはなしましょうか」 「よし、はなせ!」  樽井記者が手をはなすと、ネロはくさりをひきずって、矢のように飛んでいったが、やがて出口のところまでたどりつくと、どういうわけか、そこにぴったりと立ちどまって、ただ、いたずらにほえるばかり。 「おや、どうしたんだろう。どうしてあそこから進まないのだ」 「三津木さん、とにかくいってみましょう」 「よし」  まもなくふたりも、出口までたどりついたが、思わずそこで、あっとさけんで立ちすくんだのだ。  ネロがそこから前進しないのもむりはない。  目のまえは、まんまんとふくれあがった水なのである。つまりそのトンネルは、隅田川《すみだがわ》にむかってひらいているのだった。  見ればその川のうえを、いましも下流にむかって走っていく一そうのモーターボート。ハンドルをにぎっているのは、いうまでもなく青髪鬼《せいはつき》である。 「しまった、ちくしょう!」  俊助はじだんだふんでくやしがったが、天の助けか、そのとき、ダ、ダ、ダとエンジンの音をひびかせて、一そうのランチが近づいてきた。ネロの声をあやしんで、通りかかった水上署《すいじようしよ》のランチがそばへよってきたのだ。 「どうした、どうした。きみたちそんなところでなにをしているのだ」 「あっ、おまわりさん、ぼくたちを乗っけてください。むこうへ悪ものがにげていくのです」  俊助がいそいで事情《じじよう》を物語ると、 「なに、青髪鬼だと? よし、乗りたまえ」  警官《けいかん》たちも青髪鬼のことは知っていた。そこで一同が乗りこむと、ランチはモーターボートのあとを追っかけていちもくさん。  見ると、青髪鬼を乗っけたモーターボートは、すでに百メートルほどむこうを走っている。  しかし、さいわい今夜は満月だった。月の光に照らされて、隅田川《すみだがわ》のうえは昼のようなあかるさである。探照燈《たんしようとう》の光をかりるまでもなく、モーターボートのゆくえを見うしなうようなことはない。 「おい、フルスピードだぞ!」  警部の命令に、エンジンはものすごいうなりをたてて、ランチは矢のように川のうえをすべっていった。  両岸の家も、あかりも、うしろへうしろへふっとんで、へさきに立った俊助や樽井記者は、ランチのあげるしぶきをあびて、もう全身ずぶぬれである。  しかし、青髪鬼のほうも死にものぐるい。モーターボートとランチの距離《きより》は、いっこうちぢまるようすも見えない。 「ちくしょう、ちくしょう。警部さん、もっとスピード出ないんですか」  じだんだをふむ俊助のそばでは、ネロがはげしくほえている。 「じょうだんじゃない。これいじょうスピードを出したら、エンジンが、はれつしてしまうぜ」  そばをいく船があっけにとられて、このくるったようなモーターボートと、ランチの競走を見送っている。なかにはランチのあおりをくらって、ひっくりかえりそうになった船もあった。  だが、そのうちにモーターボートとランチの距離が、しだいにちぢまった。エンジンに故障《こしよう》でもおこしたのか、モーターボートのスピードが、すこしずつ落ちてきたのだ。 「しめた! もうひと息だ。運転手さん、たのみます」 「ようし」  二そうの船の距離はいよいよちぢまり、約五十メートルほどになったが、そのとき、樽井記者が俊助の腕《うで》をつかんで、 「あっ、三津木さん、あのモーターボートのなかには、青髪鬼のほかにだれか乗っていますぜ」 「えっ」  なるほど、見ればモーターボートのなかに、だれかねころんでいるようすである。 「ひとみさんじゃないか」 「いや、ひとみさんにしちゃ大きいですよ」 「そうだな。それじゃ探偵小僧《たんていこぞう》か。あっ、しまった、ちくしょう!」  ちょうどそのとき、下流からのぼってきたランチが、モーターボートと水上署《すいじようしよ》のランチのあいだへ、ゆうゆうとわりこんできた。しかも、そのランチはうしろに三ぞう、山のように石炭をつんだ和船をつないでいるのだから、たまらない。 「ちくしょう、はやくどかんか」  警部にどなりつけられて、ランチの主はびっくりしたらしく、あわててハンドルをにぎりなおしたが、なにしろ重い船を三ぞうも、うしろにつないでいるのだから、思うようには走れない。 「ちくしょう、ちくしょう。もうすこしで、追っつくところだったのに……」  ランチのうえで俊助が、じだんだふんでくやしがった。それでもやっとその引き船をやりすごして、一同がむこうを見ると、どうしたことか、モーターボートは、二百メートルほどの下流に、ぴったりととまっているのだ。 「しめた! 三津木さん、故障《こしよう》をおこしたんですぜ」 「ようし、運転手さん、たのみますよ」  ランチはモーターボートめがけて進んでいったが、そのとき、モーターボートのなかから、ザンブと川へとびこむかげが見えた。 「やっ! 川のなかへとびこんだぞ!」 「おい、サーチライトを照らしてみろ!」  探照燈を照らしながら、ランチはしだいにモーターボートのそばへ近づいていったが、よほどふかく水底へもぐったとみえ、青髪鬼のすがたはどこにも見えない。 「三津木さん、青髪鬼はあとでさがしましょう。それよりも、モーターボートのなかに、だれかいますぜ」  見ればモーターボートのなかには、がんじがらめにしばられたうえ、さるぐつわまではめられて、だれやらうなっているのだ。ランチがそばへ近よると、俊助はヒラリとモーターボートにとびうつり、いそいでその人をだきおこしたが、そのとたん、 「あっ、こ、これは……」  と、俊助がおどろいたのもむりはない。なんとそれは、気のくるった宝石王《ほうせきおう》、古家万造《ふるやまんぞう》ではないか。    死の鬼《おに》ごっこ  どうして古家万造《ふるやまんぞう》が、こんなところにいるのだろう。それからまた、川のなかへ飛びこんだ青髪鬼《せいはつき》は、そののちどうなったのだろうか。  しかし、それらのことはしばらくさておいて、ここでは君たちが気をもんでいるにちがいない、ひとみや探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴進《みこしばすすむ》の、その後のなりゆきについて筆を進めることにしよう。  水はもう、進の肩《かた》のへんまできていた。その進の腕《うで》にだかれて、ひとみはぐったり気をうしなっているのだ。  すこしはなれたところには、白蝋仮面《びやくろうかめん》が壁《かべ》にもたれて、ぐったりと目をとじている。さすがの怪盗《かいとう》も、こうなってはにげるみちもなく、すでに覚悟《かくご》をきめていた。  進はなんともいえぬ恐《おそ》ろしさと、悲しさで、胸《むね》もふさがるようだった。  ああ、それではもう助かるみこみはないのか。じぶんはここでネズミのようにおぼれて死ぬのか。 「いやだ、いやだ。死ぬのはいやだ」  進が思わず口に出してさけぶと、白蝋仮面がぽっかり目をひらいて、 「あっはっは、小僧。きさま、まだ生きていたのか」  と、どくどくしい笑いごえでいった。 「いくら死ぬのはいやだといっても、もうこうなっては助かるみこみはない。見ろ、水はどんどんふえていく。いまに、おまえもおれもその女の子も、みんな水におぼれて死んでしまうのだ。あっはっは!」  ああ、なんということばだろう。おなじ死ぬにしても、もうすこし、やさしいことばをかけられないものだろうか。 「いやだ、いやだ、死ぬのはいやだ。おじさん、なんとかならないの。なんとか助かるくふうはないの」 「助かるくふうがあるくらいなら、もっとはやくに助かってらあ」 「おじさん、おじさん、なんとかしてください。なんとかして、ひとみちゃんだけでも、助かるようにしてください。おじさん、おじさん!」 「うるさい!」  白蝋仮面はすごい目で、進をにらみつけると、 「きさま、そんなにこわいのか、そんなに苦しいのか。よしよし、それじゃ、こわいめも、苦しい思いもわからぬようにしてやろう」  白蝋仮面《びやくろうかめん》は目をひからせて、ザブザブ水をかきわけながら、進のほうへ近よってきた。 「あっ、おじさん、ど、どうするの」 「ひと思いにしめころしてやるのよ。あっはっは、そうすればこわい思いも、苦しいめもわすれてしまうわ。あっはっは」 「あっ、おじさん!」  進はまっさおになって、ひとみをだいたままとびのいた。 「おじさん、いやです、いやです。かんにんしてください。死ぬのはいやです」 「死ぬのはいやだといったところで、どうせ助かるみこみはないよ。ひと思いにころしてやろうというのは、いわばおれのお情《なさけ》だ。あっはっは、ありがたく思え」  ああ、なんという鬼《おに》のようなことばだろう。なるほど、どうせ助かるみこみがないのなら、ひと思いに死んだほうがましかもしれない。しかし、それにしても、もうすこしやさしいことばのかけようがありそうなものを……。 「おじさん、おじさん、かんにんして!」  進はかなきりごえをあげながら、ひとみをだいたままにげまわった。そのうしろから白蝋仮面が、両手をのばして追っかけてくる。ああ、なんというおそろしい鬼ごっこだろう。つかまったら命はないのだ。それこそ死の鬼ごっこ、命がけの鬼ごっこである。  しかし、いくらにげてもせまいへや、しかも、不自由な水のなか。おまけにひとみをだいているのだから、そういつまでもにげるわけにはいかない。  進はとうとう、白蝋仮面につかまってしまった。 「あっはっは、つかまえたぞ、つかまえたぞ。こら、おとなしくしていないか。さあ、ころして、苦しいめをわすれさせてやるのだ」  進の首をつかんだ、白蝋仮面の両手には、しだいに力がはいってきた。  ああ、こうして進は、水におぼれるのを待たないで、白蝋仮面にしめころされてしまうのだろうか。  だが、そのときだった。とつぜん、ふたりの頭のうえから、するどい声が降《ふ》ってきたのだ。 「こら、はなせ! その少年から手をはなせ!」  だしぬけにこえをかけられ、白蝋仮面も進も、あっとさけんで天井《てんじよう》をふりあおいだが、見ると、さっきの青髪鬼《せいはつき》がのぞいていた四角な穴《あな》から、ふろしきで顔をかくした男がのぞいているのだ。しかも、その男は手にピストルをにぎっている。 「おい、白蝋仮面、その少年からはなれろ。もし、その少年や少女に、指一本でもふれたらうちころすぞ」 「だ、だれだ、きさまは? 青髪鬼か?」  いやいや、青髪鬼であるはずがない。青髪鬼はちょうどそのころ、モーターボートでにげているさいちゅうだった。それに青髪鬼なら、顔をかくすはずがないのに、その男は帽子《ぼうし》をまぶかにかぶり、黒いふろしきで目の下までかくしているのである。 「だれでもよい。さあ、その少年のそばをはなれろ。よしよし、そばへよっちゃならんぞ。そばへよったらこれだぞ」  ふしぎな男は片手《かたて》でピストルをふりまわしながら、片手でとり出したのは太いつなだった。するすると、それを天井から下へたらすと、 「これ、その少年。気をうしなっている少女のかたへ、このつなをゆわえつけろ」 「おっ、おじさん、ありがとう、ありがとう。おじさんはぼくたちを助けてくれるんですね」 「なんでもよい、はやくわたしのいうとおりにするんだ。こら、白蝋仮面《びやくろうかめん》、そばへよっちゃならん」 「おじさん、ありがとう、ありがとう。ひとみちゃん、助かったよ、助かったよ」  進はむちゅうになってさけびながら、ぐったりと気をうしなっているひとみのからだを、つなのはしにゆわえつけた。 「よし、少年、待っていろ。君もあとで助けてやる」 「おい、おれはどうなるんだ。おれはこのまま見ごろしてしまうのか」 「やかましい。だまってろ!」  ふしぎな人が、両手でつなをたぐりよせるにしたがって、ひとみのからだは宙《ちゆう》にういていった。一メートル、二メートル、三メートル。とうとうひとみは、天井の穴《あな》へすいこまれてしまった。 「さあ、少年、こんどはきみのばんだ。つなのはしに、しっかりからだを結びつけるんだぞ」  怪人《かいじん》はそういいながら、また、するするとつなをたらした。 「はい、おじさん」  進は大いそぎで、いわれたとおり、しっかりつなのはしにからだを結びつけた。 「よし、それじゃ、わたしがひっぱってあげるから、君のほうからもつなをたぐって、すこしでも、上へあがってくるようにしろ」 「はい、おじさん」  宙につりあげられていく進のからだのしたから、白蝋仮面が、気がくるったようにさけんだ。 「おい、おれはどうなるんだ。おれをどうするつもりだ。おれをこのままほうっておくのか」 「やかましい。だまってろ。きさまもあとで助けてやる」 「ほんとうか」 「うそはいわぬ」 「ありがたい。しかし、いったいきさまはなにものだ。まさか警察《けいさつ》のものじゃあるまいな」 「いや、警察のものではない」 「では、いったいだれだ!」 「おれか、おれは影の人……」 「なに、影の人……?」 「そうだ。そら、少年、もうひと息だ。がんばれ!」 「お、おじさん、あ、ありがとう……」  やっと四角な穴《あな》からうえにはいあがった進は、気がゆるんだのか、そうつぶやくと、そのままそこへ気をうしなってたおれた。 「ああ、かわいそうに……。むりもない」  影の人はそうつぶやくと進のからだからつなをほどいて、また、天井の穴から下へたらした。しかし、つなのはしが水面から、二メートルほどのところまでくると、そこでピタリとつなをとめ、 「おい、白蝋仮面《びやくろうかめん》。いま、きさまをうえへあげると、きっとわれわれに害をくわえるにちがいない。だからつなはそこでとめておく。もう少したって水かさがませば、そのつなにとどくようになるだろう。つなのはしはここの柱に結びつけておいてやるから、そうしたらつなをたぐってあがってこい」 「おい、そ、そ、そんなせっしょうな」  白蝋仮面は気がくるったようにさけんだが、影の人は耳にもいれず、天井|裏《うら》の太い柱につなのはしを結びつけると、まず、ひとみのからだをだきあげた。  ああ、それにしても、このふしぎな影の人とはいったい何者だろうか。    地底の滝《たき》  さて、いっぽうこちらは三津木俊助《みつぎしゆんすけ》。  隅田川《すみだがわ》をにげていく、青髪鬼《せいはつき》のモーターボートに追いついてみれば、そこにはすでに、青髪鬼のすがたはなく、そのかわり、がんじがらめにしばられて、船底によこたわっているのは、なんと気のくるった宝石王《ほうせきおう》、古家万造《ふるやまんぞう》ではないか。  一同はすぐに万造のナワをとき、さるぐつわをはずしてやったが、なにしろ精神《せいしん》に異常《いじよう》をきたしているのだから、なにをたずねてもわからない。ただ、ギャアギャアと、わけのわからぬことをわめくばかり。  このようすを見ると俊助は、樽井《たるい》記者をふりかえり、 「樽井君、こりゃこうしてはいられない。ここにひとみさんや探偵小僧《たんていこぞう》のすがたが見えないとすれば、ふたりともまだ、あの地下道にいるにちがいない。ぼくはこれから、ネロをつれてひきかえすから、きみはあとにのこって、警官《けいかん》たちといっしょに、青髪鬼のゆくえをさがしてくれたまえ」 「しょうちしました」  そこで三津木俊助は、あとのことを樽井記者や警官たちにまかせておいて、じぶんはネロとともに、青髪鬼《せいはつき》の乗ってきたモーターボートで、もとの地下道の入口へもどってきた。 「ネロ、しっかりたのむぞ。こんどこそ、探偵小僧《たんていこぞう》のゆくえをかぎだしてくれよ」  ネロはそのことばがわかったのか、さっき出てきた地下道をこんどはぎゃくにすすんでいった。俊助は懐中電燈《かいちゆうでんとう》をてらしながら、そのあとからついていった。  やがて、ネロと俊助がやってきたのは、地下道が、ふたまたにわかれているところである。  そこまでくると、ネロは、クンクンそのへんをかいでいたが、やがて、さっき青髪鬼がとび出してきた、せまいアーチがたのトンネルのなかへとびこんだ。 「ああ、そうか。それじゃ探偵小僧やひとみさんは、こっちのほら穴《あな》へはいっていったのか」  トンネルの入口には石の階段《かいだん》が十段あまり、それをおりると床の上には、二、三十センチばかりの深さで、水がはげしくうずまいているのだ。  俊助はふっとあやしい胸《むな》さわぎをかんじた。さっきここから青髪鬼がとび出してきたことといい、いままたこの水といい、もしや探偵小僧やひとみは、この地下道のおくで、おそろしい災難《さいなん》にあっているのではあるまいか……。  ネロをせんとうに立てた俊助が、ジャブジャブ水のなかをすすんでいくと、やがてつきあたったのは、ぴったりしまった鉄のドア。しかも、そのドアのすきまから、滝《たき》のように水があふれているのである。 「あっ、しまった! それじゃ探偵小僧とひとみちゃんは、このドアのなかで、水攻《みずぜ》めになっているにちがいない!」  俊助はくるったようにドアをたたきながら、進やひとみの名をよんだが、なかからはなんの返事もきこえない。  俊助はなんとかして、ドアを開こうとしたが、ドアとはいえ、それは鉄板もどうようで、どこにも、とってはついていないのだ。  俊助はやっきとなって、ドアの上をなでまわしていたが、そのうちに、ふと手にさわったのは、かたわらのかべの上についている小さなボタン。  俊助がなにげなくそれをおすと、鉄のドアがするすると、うえへあがっていったのはよかったが、そのとたん、へやのなかから、どっとあふれてきた水に足をとられて、 「しまった!」  と、思わずさけんだ俊助の目に、そのときチラリとうつったのは、へやのなかの光景である。へやのなかには天井から、一本のつながぶらさがっていて、いましも、ひとりの男がそれをのぼっていくところだった。  しかもそれは、なんと、じぶんと、すんぶんちがわぬ顔をした男ではないか。 「あっ、びゃ、白蝋仮面《びやくろうかめん》!」  俊助は一声たかくさけんだが、そのまま、地底の滝にのまれてしまった。    猛犬《もうけん》と怪盗《かいとう》  こうして三津木俊助《みつぎしゆんすけ》は、みすみす白蝋仮面《びやくろうかめん》を眼前に見ながら、水におしながされてしまったが、それよりちょっとまえのことである。  俊助がやっきになって、鉄のドアをたたいているうちに、なに思ったのか、ネロはひくくうなり声をあげながら、くらやみのなかを右のほうへ走っていった。  くらがりのなかのことなので、俊助も気がつかなかったのだが、へやにそって右のほうへ、せまいろうかがついており、そのろうかのつきあたりは、傾斜《けいしや》のきゅうな階段《かいだん》がついているのである。  ネロはくさりをひきずりながら、まっしぐらにその階段をのぼっていったが、俊助があの鉄のドアをひらいて、地底の滝《たき》にまきこまれたのは、ちょうどそのころだった。  しかし、ネロはそんなことには気がつかない。いなずまがたについている、せまい階段をのぼっていくと、ガランとした、広い倉庫のなかに出た。  見ると、その倉庫のすみには、床《ゆか》に四角なあながあって、いましも、そこからはい出してきたのは、びしょぬれになった白蝋仮面。それを見るなり猛犬ネロは、ものすごいうなりをあげてとびかかった。  さすがの怪盗、白蝋仮面も、あんまりだしぬけだったので、ふせぐ|てだて《ヽヽヽ》もない。 「わっ、な、なんだ、なんだ!」  とさけびながら、ネロととっ組みあいをしたまま、どうと床《ゆか》にころがった。  ネロはいかりにみちたさけびをあげながら、白蝋仮面ののどをめがけて、するどいきばを立てようとする。 「おのれ、この狂犬《きようけん》め、ど、どうするつもりだ」  白蝋仮面はあおむけにねころんだまま、必死となってふせいだ。しかし、なにしろ長いあいだ、水につかっていたものだから、からだはわたのようにつかれている。  ともすれば、ネロのするどいきばのさきに、のどをひきさかれそうになって、 「わっ、た、たすけてくれえ!」  と、さすがの怪盗、白蝋仮面も、思わず悲鳴をあげたが、その声がきこえたのか、倉庫の外から足音がきこえたかと思うと、がらりと戸をあけて、とびこんできたのはふたりの男。  懐中電燈《かいちゆうでんとう》の光にこの場のようすを見ると、 「あっ、ネロじゃないか。ネロ、ネロ、どうしたんだ」  と、そばへかけよってきて、うえから白蝋仮面の顔を見ると、びっくりしたように、 「あっ、こ、これは三津木さんじゃありませんか、ネロ、どうしたんだ。気でもくるったのか。三津木さんにたいして、なんというまねをするんだ」  どうやらこのふたりづれは、新日報社の記者らしい。たけりくるうネロのくさりをひっぱって、やっとうしろへひきもどした。白蝋仮面《びやくろうかめん》はよろよろ床から起きあがると、 「ああ、どうもありがとう。ネロめ、ひどいめにあわせおった」  白蝋仮面は三津木俊助になりすまし、のどのあたりをさすっている。 「三津木さん、いったい、これはどうしたんです」 「なに、ネロめ、気がくるったか、それともなにかかんちがいをしているんだ。それより、きみたちはどうしてここへ来たんだ」 「いえね、さっき影《かげ》の人と名のるふしぎな人物から、新日報社へ電話がかかってきて、探偵小僧《たんていこぞう》やひとみさんがここにいるから、すぐにつれにこいといってきたんです」 「ああ、そうかそうか。それでふたりはどうしたね」  にせ俊助の目がきらりと光った。しかしふたりは気もつかず、 「ええ、いいぐあいに、むこうの建物のなかで気をうしなっているのを見つけて、さっき自動車で社のほうへ送らせました。ぼくたちもそろそろ引きあげようと思っているところへ、三津木さんの声がきこえたものですから……」 「ああ、そうか。それはよかった。ときに、ぼくはちょっとむこうのほうに用事があるから、きみたち、しっかりその犬をおさえていてくれたまえ。すぐもどってくるから、それまで、ネロをはなしちゃだめだよ」 「はい、しょうちしました」  こうしてまんまと俊助になりすまし、にげだす白蝋仮面のうしろから、ネロがくるったようにほえたてたが、ふたりの記者はそんなこととは夢《ゆめ》にも気がつくはずがない。  白蝋仮面の命令どおり、ひっしとなってネロのくさりをおさえていたが、それからまもなく、ほんものの俊助が階段をあがってくるにおよんで、ふたりがどんなにきもをつぶしたか、いまさらここにいうまでもないだろう。  その晩《ばん》、三津木俊助が、新日報社へかえってきたのは、もうかれこれ、ま夜中のこと。  探偵小僧の御子柴進《みこしばすすむ》と、月丘《つきおか》ひとみも、ひとあしさきにかえっていて、医者の手あてで、ようやく、正気にかえったところだった。  そこで、新日報社の局長室では、山崎編集《やまざきへんしゆう》局長を中心に、深夜の会議がひらかれた。  集まったのは山崎のほかに、三津木俊助と御子柴進、それからひとみの四人だった。みんなして、こんどの事件《じけん》をはじめから考えてみようというのだが、それにはガラス工場で、ひとみが神崎《かんざき》博士から聞いてきたうちあけ話が、おおいに役にたったのだ。 「なるほど、するとあのミイラのような青髪鬼《せいはつき》は、鬼塚三平《おにづかさんぺい》という男なんだね」  俊助の質問《しつもん》にたいして、ひとみはおびえたようにうなずいた。 「そして、その鬼塚三平と宝石王《ほうせきおう》の古家万造《ふるやまんぞう》、神崎博士、それからひとみさんのおとうさんの月丘|謙三《けんぞう》さんと、この四人が仲間になって、いろいろ冒険《ぼうけん》をしているうちに、ひとみさんのおとうさんが、ダイヤモンドの大宝庫を発見したというんだね」  ひとみはまたうなずいた。 「ところが、その大宝庫を発見したすぐあとで、ひとみさんのおとうさんがなくなられた。しかも、その秘密《ひみつ》を知っているのは、仲間の三人だけだった。その仲間のうち鬼塚三平は、大宝庫をひとみさんにかえそうと主張《しゆちよう》したが、万造はそれをきかずに三平をとらえて、マレー半島のコバルト鉱山《こうざん》へ送ってどれいにしてしまったというんだね」  ひとみはまたかすかにうなずく。 「ところが、その鬼塚三平が、コバルト鉱山を脱出《だつしゆつ》して、ちかごろ日本へかえってきた。そして、じぶんを苦しめた古家万造や神崎博士、さてはひとみさんに復讐《ふくしゆう》して、大宝庫をとりもどそうとしている。……と、そういうことになるんだね」 「はい。神崎博士はそうおっしゃいました」 「しかし、それじゃ、話がすこしおかしいじゃないか」  と、そばから口をだしたのは山崎編集局長だ。 「鬼塚三平が古屋万造や神崎博士をうらむのは、むりもないが、ひとみさんに復讐しようというのはどういうわけだ。いま聞けば、鬼塚三平がコバルト鉱山へ送られたのも、もとはといえば、大宝庫をひとみさんにかえすべきだと主張したからだろう。それほど正義感のつよい男が、ひとみさんに復讐しようというのは、ちと、おかしいじゃないか」  いかにも、もっともな山崎の意見である。 「ええ、ですから、鬼塚三平というひとは、気がくるっているにちがいないと、神崎博士もいっていました」 「いかに、気がくるっているとはいえ……」  山崎はなおもことばをつづけようとしたが、俊助がそれをさえぎって、 「いや、そのことについては、いずれ、あとで考えることにして、それより、ひとみさん」 「はい」 「その大宝庫だがね。それはあの写真にうつっていた、烏帽子《えぼし》のような岩がそうなのかね」 「はい、そうらしいです」 「そして、あの写真の岩はいったいどこにあるの」 「それがよくわかりませんの。それをいおうとしたとき、ピストルのたまがとんできて、神崎博士はガラスのプールに落ちてしまったのです」  俊助はしばらくだまって考えていたが、 「いや、それでだいたい話のすじ道はわかった。ただ、わからないのは、あの水攻《みずぜ》めのへやから、探偵小僧《たんていこぞう》やひとみさんを、たすけてくれた男のことだ。御子柴君、それはいったいどんなひとだったの」 「さあ、それが……そのひとはふろしきで顔をかくしていましたし、それにたすけられると、ぼくは、そのまま気をうしなってしまったもんですから。……ただ、そのひと、じぶんのことを影《かげ》の人とよんでいましたが……」 「影の人……その影の人とはなにものだろう」  しばらく一同は、ふしぎそうに顔を見あわせていたが、やがて俊助が思いだしたように、ポケットから取り出したのは一|枚《まい》の紙きれだった。  君たちもおぼえているだろう。古家万造の秘書《ひしよ》の佐伯《さえき》が、三津木俊助にのこしていった封筒《ふうとう》のなかに、ふしぎな紙きれが一枚はいっていたことを……。  あのとき、封筒にはいっていた、青髪鬼《せいはつき》の二枚の写真と、烏帽子《えぼし》岩の写真は、白蝋仮面《びやくろうかめん》にうばわれてしまったが、さいわい、この紙きれだけは、俊助の手もとにのこったのだ。  その紙きれの上には、一ぴきの大きなクモの絵がかいてあり、そして、そのクモのかたちの余白《よはく》には、なにやら符号《ふごう》のようなものが書いてあった。  俊助は目をさらのようにして、その紙きれをにらみながら、 「山崎さん、いまこそ、この紙きれのいみがわかりましたよ。これはきっと暗号なのです。そして、この暗号をとくことによって、はじめて大宝庫、烏帽子岩のありかがわかるにちがいない。われわれは、大至急《だいしきゆう》この暗号をとかねばなりません」  そういわれて一同は、いまさらのようにそのふしぎな紙きれに目をやったが、はたして三津木俊助に、その暗号がとけるのだろうか。    それから一週間ほどのちのこと。  舞台《ぶたい》は東京からはるかにとんで、ここは三重県《みえけん》、志摩《しま》半島の|とったん《ヽヽヽヽ》である。海岸線にそって走るバスのなかに、三人づれの客が乗っていた。  ひとりは三十五、六の、いかにもきびきびした青年だが、あとのふたりは、まだ年若い少年少女。いうまでもなくこの三人づれは、三津木俊助に御子柴進、それから月丘ひとみだった。  進はまどの外をとんでいく、うつくしい海岸の景色をながめながら、 「三津木さん、それじゃ、あの暗号がとけたんですね。そして、あの大宝庫とは、この志摩半島にあるんですね」  と、好奇心《こうきしん》に目をひからせている。 「しっ、あまり大きな声を出しちゃいかん」  と、俊助はあわててバスのなかを見まわしながら、 「このことについては、あとでゆっくり説明してあげよう。とにかく、これからいくところに、烏帽子岩があるかないか、それをつきとめてからのことだ」  バスはいま、海岸の絶壁《ぜつぺき》の上を走っていく。ゆくてを見ると、びょうぶのような断崖《だんがい》がつらなって、その断崖のはるか下に、白い波がうちよせているのだ。  そして、海の上を見ると、いたるところに、にょきにょきと、きみょうなかたちをした岩が、波のあいだからつき出している。  進とひとみは、そういう岩を見るたびに、もしやあれが大宝庫ではあるまいかと、胸《むね》をどきどきさせた。  こうしていまや三人は、いよいよ目的の大宝庫《だいほうこ》に近づきつつあるのだが、そのまえに、あれからのち東京でおこったできごとを、ちょっとここに書きしるしておくことにしよう。  あの晩《ばん》、あとにのこって隅田川《すみだがわ》の捜索《そうさく》にあたった樽井《たるい》記者は、とうとう青髪鬼《せいはつき》のすがたを発見することができなかった。  そのかわり、捜索隊の一行は、なんともいえぬ、みょうなものを発見したのである。それは隅田川の下流にうかんでいた、大きな蝋人形《ろうにんぎよう》だった。その蝋人形はちょうど人間くらいの大きさがあり、しかも、ちゃんと洋服を着ているのである。  いったい、どうしてそんな蝋人形が、隅田川にうかんでいたのか、そのことと、青髪鬼の事件《じけん》とかんけいがあるのか、ないのか、そのときはさっぱりわからなかったが、あとから思うと、この蝋人形こそ、青髪鬼のゆくえに大きなかんけいがあったのだ。  さて、神崎博士の落ちたガラスのプールは、その翌日《よくじつ》、げんじゅうに検査《けんさ》された。  その結果わかったところによると、ガラスの液体《えきたい》のなかに、人間ひとりぶんくらいの、燐《りん》がとけていたのである。  たぎりたつガラスのプールへ落ちたせつな、神崎博士は肉も骨《ほね》もとけて、ガスになってしまったが、骨のなかにふくまれている燐だけが、ガラスの液体のなかにのこったのであろう……と、そういうことになった。  それから、気のくるった宝石王、古家万造だが、その晩、ひとまずじぶんの家へ送りかえされたものの、それから三日ほどのちに、とつぜんすがたをくらましてしまった。  警察《けいさつ》では、てっきり青髪鬼にかどわかされたものであろうと、やっきとなって、ゆくえをさがしたが、いまもってそのゆくえはわからない。  こうして、あの晩から一週間たった。  三津木俊助はそのあいだに、さんざん頭をしぼったあげく、やっと暗号の一部をといて、いまこうして、志摩《しま》半島へやってきたのである。  バスはいま、断崖《だんがい》のうえの道を大きくカーブしたが、そのときだった。 「あっ、三津木さん、あそこに烏帽子《えぼし》岩が……」  そうさけんだのは進である。その声に、はじかれたようにまどの外へ目をうつした俊助とひとみは、思わずあっといきをのみこんだ。  ああ、むこうの海につき出している、烏帽子のようなかたちの岩、それこそ白蝋仮面《びやくろうかめん》にぬすまれた、写真にそっくりではないか。  三人は思わずいきをつめて、それに見とれていたが、そのとき、乗客のなかにもうひとり、その岩を見て、ぎょっといきをのんだものがあったのである。    あばれ馬車  三人がバスからおりると、古ぼけた馬車をつれた青年が、つかつかとそばへよってきて、 「ちょっとおたずねしますが、あなたはもしや、三津木俊助《みつぎしゆんすけ》さんではありませんか」 「ああ、そう、それじゃきみが河野《こうの》君?」 「ええ、そうです。電報《でんぽう》をいただいたので、馬車でおむかえにまいりました」  新日報社は、全国に支局《しきよく》をもっている。河野青年はこの地方の支局の記者なのだった。 「ああ、そう、ありがとう。清水《しみず》というところまで、ここからだいぶあるの」 「四キロぐらいあります。三津木さんだけだと、自転車でごあんないするんですが、小さいおじょうさんがいっしょだということでしたから……」 「いや、ありがとう。ときに、清水にとまれるようなところがあるかしら」 「太平寺《たいへいじ》という寺があるんですが、そこの和尚《おしよう》さんの了海《りようかい》さんにたのんで、とめてもらうようにしておきました」 「ああ、それはよかった。それじゃ、そろそろ出かけることにしようじゃないか」 「ちょっと待ってください。馬車のぐあいを見ますから」  河野青年が馬車のぐあいをしらべるあいだ、道ばたに立って待っている三人から、すこしはなれたところに、ひとりの男が、なにやら人待ちがおに立っていた。  その男は鳥打帽子《とりうちぼうし》をまぶかにかぶり、レーン・コートのえりを立て、おまけに大きな黒めがねをかけているので、とんと顔はわからないが、さっき、バスのなかから烏帽子《えぼし》岩を見て、ギョッとしたのはこの男である。  おまけにそいつはさっきから、俊助と河野青年の立ち話を、そっとぬすみ聞きしながら、しきりに目をひからせているのだ。  ああ、この黒めがねの男とはいったい何もの? ひょっとするとこの男は、東京から俊助たちをつけてきたのではないだろうか。  やがて、馬車の用意ができた。 「さあ、どうぞ、おじょうさんから……」  河野青年に手をとられて、ひとみが馬車に乗ったときだった。むこうから走って来たのは、一台のスクーター。乗り手は大きな風防めがねをかけた男だったが、馬車のそばをかけぬけるとき、なにやら、馬の耳になげこんだからたまらない。 「ひ、ひ、ひ、ひいん!」  と、馬ははげしくいなないて、うしろ足で、ピーンとさお立ちになったかと思うと、つぎのしゅんかん、くるったように走り出した。おどろいたのは三津木俊助。 「なにをする!」  と、ふりかえったときはおそかった。スクーターはもうすでに、百メートルほどうしろを、流星のように走っているのだ。 「しまった! しまった! ちくしょう! 青髪鬼《せいはつき》のやつがさきまわりをしていたんだ」  俊助がじだんだふんでくやしがりながら、まえを見れば、ひとみを乗せた古馬車が、あらしにあった小船のように、はげしく、ガタガタゆれながら、さびしい、いなか道を走っていく。 「ああ、三津木先生、助けてえ……」  馬車のうしろから両手を出して、ひとみが助けをもとめている。  それを見ると俊助と河野青年、探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴進は、一生けんめい馬車のあとを追いかけたが、馬と人間の競走では、とても勝負にはならない。  気のくるったあばれ馬は、みるみるうちに三人をひきはなし、はるかかなたの森のむこうへ消えてしまった。泣きさけぶ、ひとみをひとり乗っけたまま……。    三人が馬車のゆくえを発見したのは、それから半時間ほどのちのことであった。  ああ、なんというむごたらしいことであろう。馬車は町はずれの高いがけから落ちて、あのあばれ馬は、首の骨《ほね》を折って死んでいるのだった。  あとでわかったところによると、馬の耳には鉄砲玉《てつぽうだま》ほどの鉛《なまり》のかたまりが、ほうりこんであったのだ。馬は走れば走るほど、耳のなかで鉛のかたまりがガラガラ鳴るので、くるったようになって走っているうちに、とうとうがけから落ちて死んだのである。  しかし、それにしてもひとみはどうしたのか……。馬のそばには、めちゃめちゃにこわれた馬車が、ころがっていたが、ひとみのすがたはどこにも見えなかった。  俊助は馬車のそばにあつまっている、村のひとたちに聞いてみたが、だれもひとみを見たひとはいないのである。 「わたしはこの馬車が、がけからころげ落ちるところを見ていたのですが、そのとき、だれも馬車に乗ってるようには見えませんでしたよ」  と、村の老人がいった。  そのほかにも、馬車が走っていくのを見たひとがあったが、だれもひとみのすがたを見たものはいないのである。  すると、ひとみはとちゅうで馬車からとびおりるか、それともふり落されたのではないだろうか。そして、そのときけがをして、どこかでたおれているのではあるまいか……。  そこで、みんなで手わけして、馬車の走ってきた道を、もういちどさがしてみたが、ひとみのすがたはどこにも見えなかった。  しかし、そのうちに、つぎのようなことがわかった。  それは清水《しみず》からきた漁師《りようし》の話なのだが、そのひとは、清水からこっちへくるとちゅう、自転車に乗った男にすれちがったが、その自転車のうしろには十三、四|歳《さい》のかわいい少女が、ぐったりとして乗っていたというのである。  俊助がおどろいて、自転車の男の人相《にんそう》を聞いてみると、その男はすれちがうとき、自転車のうえで、さっと頭をさげたので、顔はよく見えなかったが、このへんのものではなかったということだった。 「三津木さん、ひょっとすると青髪鬼《せいはつき》では……」  進は思わず声をふるわせた。 「いや、青髪鬼ならスクーターに乗っているはずだが……」 「しかし、それじゃだれでしょう。ひとみさんの敵《てき》か味方か……」 「それはぼくにもわからない。しかし、それが敵にしろ、ひとみさんが生きていれば、また助けるみちもある。河野君、とにかく、すぐに清水へいこう」  ひとみをさがすのにてまどったので、三人が清水へついたのは、もう、夜もだいぶふけてからのことだった。  清水というのは漁師《りようし》村だが、その村はずれに太平寺という古寺がある。一同がそのお寺へはいっていくと、出むかえたのは、六十ぐらいの、まゆのしろい坊《ぼう》さんだった。 「和尚《おしよう》さん。お客さんをつれて来ました」 「ああ、ようこそ。おや、お客さんはおふたりかな。きのうの話では、三人じゃということじゃったが……」 「いや、それについては、あとでお話いたします」 「ああ、そう、とにかくおあがり。なんにもないが食事の用意もしてあるで……」 「ごやっかいになります」  三人は座敷《ざしき》へあがったが、河野青年はふしぎそうにあたりを見まわし、 「おや、了仙《りようせん》君はどうしました」 「了仙か。了仙は、きゅうに用事ができまして、大阪へいった。二、三日、寺をあけることになったが、なに、お客さんのおもてなしぐらい、わしひとりでじゅうぶんじゃ。さあ、おつかれじゃろう、いっぱい、どうじゃな」 「これはおそれいります。それでは、せっかくですから、いただきましょうか」  俊助と河野青年は、なにげなくさかずきをとりあげたが、そのとき、和尚の目が、ギロリと、あやしくひかったのを、だれも気をついたものはなかったのである。  ああ、あやしいのは和尚の目つき……。    暗号をといて  それからまもなく、食事をおわった三人は、あてがわれたへやへしりぞいたが、そこにはちゃんと、三つの寝床《ねどこ》がしいてあった。  河野青年はかえるはずだったのだが、あまりおそくなったのと、了海《りようかい》さんがすすめるので、とまることになったのだ。 「ああ、ねむい、ねむい。どうしたんだろう。なんだかねむくてしかたがない」  河野青年はそういいながら、寝床《ねどこ》へもぐりこんだかと思うと、はや、もうたかいびきである。 「河野さん、よっぽどくたびれたんですね。それともお酒によったのかしら」 「なに、ようほども飲みはしない。まあ、いいさ。じゃまものが寝てくれてさいわいだ。御子柴君、これをごらん」  と、ふたりもそれぞれ、寝床のうえに腹《はら》ばいになると、俊助がひろげて見せたのは一|枚《まい》の紙きれ。進はそこにかいてあるクモの絵を見て、思わず目をみはった。 [#挿絵(fig1.jpg、横466×縦440)] 「あっ、三津木さん、これは大宝窟《だいほうくつ》のありかをかいた暗号ですね」 「そうだよ、御子柴君。そして、ぼくがどうして、この暗号をといたかおしえてあげよう」  と、俊助はクモのうえに書かれた数字を指さしながら、 「ねえ、この数字はみんな、ふたつの数字の組合わせになっているだろう。十一という数字のほかは……」 「ええ」 「そればかりではない。組合わせになっている数字は、みんな十以下の数字ばかりだ。しかも、組合わせのまえにおかれた数字には、五以上のもあるが、あとにおかれた数字は、ぜんぶ五以下だろう。この組合わせになった数字の一組が、ひとつの字をあらわすとして、そのことから、なにか思いつきゃしないかね」 「さあ……」  進は首をかしげて考えていたが、きゅうにさっと目をかがやかせると、 「あ、三津木さん、これ、五十音をしめしているのじゃありませんか」 「えらい。さすがは探偵小僧《たんていこぞう》だ。それじゃ、ひとつ、この暗号をといてごらん」 「ええ」  そこで進は、紙の上に五十音をかくと、それに数字を書きいれた。 「三津木さん、この横にならんだ数字とたての数字を組合わせていけばいいんですね。たとえば、七と二はミというふうに……」 「そうだ、そうだ、ひとつやってみたまえ」  進は一生けんめい、そこにかかれた数字の組合わせと、五十音をてらしあわせていったが、やがて、できあがったのは、     ミエケ11   シマハ11トウ   シミス   「ああ、わかった、わかった。三津木さん、十一というのは、五十音からはみ出した、ンという字をしめしているんですね。それと、三と三との組合わせの下にアンダー・ラインが引いてあるのは、にごるということなんですね」  そういいながら、なにげなく俊助のほうをふりかえった進は、思わずギョッといきをのみこんだ。  ああ、なんということだろう。いまがいままで、げんきよく話をしていた俊助が、まくらに顔をおしつけて、白川夜船《しらかわよふね》のたかいびき、正体もなくねむっているではないか。 「三津木さん、三津木さん、どうかしたんですか。どこか気ぶんでもわるいのですか」  俊助の肩《かた》に手をかけ、進は二、三度つよくゆすぶったが、そのときだった。音もなくふすまが開いたかと思うと、ニヤリとなかへはいってきたのは了海和尚《りようかいおしよう》である。    あやしい和尚《おしよう》 「おい、小僧《こぞう》」  と、了海和尚はあざけるように、 「いくら起してもだめよ。俊助もこっちの男も、とても朝までさめやせん」 「えっ!」 「さっき飲んだ酒のなかには、強いねむり薬がはいっていたんだからな。うっふっふ」  きみのわるい笑い声に、進はゾッと、水をあびせられたような気もちがした。 「あなたはだれです、どうしてそんな……」 「あっはっは、小僧、おれがだれだかわからんのか。いつかきさまといっしょに水攻《みずぜ》めになったことがあったな」 「あ、そ、それじゃ白蝋仮面《びやくろうかめん》……」 「あっはっは、やっとわかったかい。あれからおれは、ずっとおまえたちを見はっていたんだ。そして、こんども東京から、おまえたちのあとをつけてきたんだが、さっきバスからおりたところで、俊助とこの男の立ち話を聞いて、この寺へくることがわかったから、さきまわりをして、和尚にばけて待っていたんだ」 「そ、それじゃほんものの和尚さんは?」 「しんぱいするな。まさか殺しゃせん。和尚も了仙《りようせん》というわかい坊主《ぼうず》も、ねむり薬をのまされて、本堂のほうで寝《ね》ているわ。あっはっは」 「あっ、三津木《みつぎ》さん、起きてください、起きてください。だれか来てえ!」 「やかましい!」  白蝋仮面《びやくろうかめん》は、いきなり進にとびかかると、 「いくら声をたてても、人里《ひとざと》はなれたこの古寺だ。だれも来る気づかいはないわ。それより、小僧《こぞう》、その紙きれをこっちへよこせ」  あっとさけんで進は、あわてて、暗号の紙のうえに身をふせた。 「ばか。その暗号がほしいばかりに、おれはおまえたちをつけてきたのだ。さあ、どけ。どかぬとこれだぞ」  と、ピタリとひたいにおしつけたのはピストルである。  進が、いかに勇敢《ゆうかん》とはいっても、ピストルにはかなわない。思わずあとずさりするところを、白蝋仮面はすばやくしばりあげてしまった。 「あっはっは、朝までそうしていろ。そのうちに俊助が目をさましたら、わけを話して、といてもらうがいい。あっはっは」  白蝋仮面は、暗号の紙きれをとりあげると、ゆうゆうとして出ていった。  進はくやし涙《なみだ》を目にうかべて、白蝋仮面のうしろすがたを見おくっていたが、そのとき、みょうなことが起ったのだ。  ふすまのそとへ出ようとしていた白蝋仮面は、とつぜん、アッとさけぶと、手にしたピストルをとりおとした。 「だ、だれだ」  とさけんで、白蝋仮面はあわてて、ピストルをひろおうとしたが、その鼻さきへ、ヌッとつきつけられたのは、一ちょうのピストルである。さすがの白蝋仮面もおどろいて、あわてて二、三歩とびさがると、 「あ、き、きさまは青髪鬼《せいはつき》!」  いかにもそれは青髪鬼だった。あの秋の空のようにまっさおな髪《かみ》、ミイラのように、しわだらけのはだ……青髪鬼はギラギラとあやしく目をひからせながら、無言のまま白蝋仮面の手から、暗号の紙きれをとりあげると、そのままじりじりとあとずさり。 「お、おのれ!」  白蝋仮面はじだんだふんでくやしがったが、ピストルの力にはかなわない。  青髪鬼はしだいにあとずさりをしていって、やがて縁《えん》がわでとまると、あいている雨戸のすきまから、さっと庭へとび出した。 「おのれ、青髪鬼、待て!」  白蝋仮面《びやくろうかめん》もそのあとからじぶんの落したピストルをひろいあげると、これまたまっくらな庭へいちもくさん。さっきから、そのようすを見ていた進も、両手をしばられたまま、ふらふらと立ちあがったが、そのときだった。 「御子柴《みこしば》君、しずかにしたまえ」  だしぬけに、うしろから声が聞えたので、ギョッとふりかえると、ああ、なんと、ねているはずの俊助が寝床《ねどこ》の上におきなおり、ニコニコ笑っているではないか。 「あっ、三津木さん、あなたは起きていたんですか」 「しっ、白蝋仮面は……?」 「白蝋仮面は青髪鬼《せいはつき》のあとを追っかけていきました。しかし、三津木さん、あなた、ねむり薬をのまされたんじゃなかったんですか」 「なあに、さっきの酒、ちょっとへんな味がしたから、のむようなふりをして、うまく捨《す》てていたのさ。ところが、このへやへさがってくると、いきなり河野《こうの》君がグウグウねむりこけてしまったから、ひょっとするとさっきの酒に、ねむり薬がはいっていたのではあるまいかと、ぼくも寝たふりをしていたのさ」 「しかし、それじゃ、あの暗号は……?」 「あっはっは、しんぱいするな、あれはにせものだよ」 「えっ、にせもの……?」 「そうだ。ぼくもまさか了海和尚《りようかいおしよう》が白蝋仮面とは気がつかなかったが、なににしてもあやしいそぶり。きっと暗号をねらっているのだろうと思ったから、わざとにせの暗号をとり出しておいたのさ。あっはっは」  俊助は笑いながら、河野青年を起したが、よほど薬がきいているとみえて、目をさますけはいもない。 「しかたがない。それじゃ、このまま朝まで寝かしておこう。ときに、御子柴君」 「はい」 「さっき、白蝋仮面がいってたな。和尚も了仙《りようせん》というわかいお坊《ぼう》さんも、ねむり薬をのまされて本堂のほうで寝ていると。……ひとつ、いってみようじゃないか」  本堂までやってくると、なるほど、うすぐらいすみのほうに、了海和尚とわかい了仙が、さるぐつわをはめられたうえ、がんじがらめにしばられてころがっていた。  ふたりとも、もう薬のききめがきれたとみえて、目をさましてもがいている。  俊助と進が、いそいでいましめをとき、さるぐつわをはずしてやると、 「あなたはいったいだれじゃ」  と、了海和尚があやしむようにたずねた。 「ぼくは三津木俊助というものです。河野君から、ここへとめていただくよう、おねがいしておいたものです」 「しかし、その河野君は……?」 「河野君はむこうに寝ています。ねむり薬をのまされているのです」  と、てみじかにわけを話し、寝室《しんしつ》へつれてきて、ねむっている河野青年のすがたをみせると、和尚《おしよう》も了仙君もやっと|なっとく《ヽヽヽヽ》した。 「いや、うたがってすまなかった。なにしろ、さっきひどいめにあったものだから。……しかし……」  と、和尚は思い出したように、 「河野君の話によると、もうひとり、つれがあるという話だったが……十三、四の女の子がくるはずじゃなかったのかな」 「さあ、それです」  と、三津木俊助はひざをすすめて、 「それについては、たいへんなことができまして……」  と、さっきのあばれ馬車のいきさつから、ひとみらしい少女が自転車にのせられて、この村のほうへくるのをみたという漁師《りようし》の話をうちあけたのち、 「だから、ひとみさんはひょっとすると、この村のどこかにいるんじゃないかと思うんです」  と、そういう俊助の話をきいて、わかい了仙君の顔色がさっとかわった。    クモの巣《す》の岩窟《がんくつ》 「おや、了仙《りようせん》さん、あなた、なにかごぞんじなんですか」 「はあ、そういえばきょうの夕がたのことでした。わたし、裏山《うらやま》へたきぎをとりにいったんですが、そのかえりのこと、自転車をひいて、下からのぼってくる、へんな男にあったんです」 「なるほど、それで……」 「みるとその自転車には、十三、四|歳《さい》の女の子がぐったりとのっています。わたしがわけをたずねると、この子がきゅうに病気になったので、隣村《となりむら》の医者へつれていくというんです」 「なるほど、それから……?」 「いや、わたしはそれきりわかれたんですが、あとから考えると、徒歩なら山越《やまご》えのほうがはやいが、自転車があるなら、ふつうの道をいったほうが、よっぽどはやいだろうにと、ふしぎに思っていたんです」 「いったい、どんな男でした」 「さあ、どんな男といって……」  了仙は首をかしげた。俊助は和尚のほうへむきなおって、 「和尚さん、この山のなかに、どこか、かくれていられるような場所がありませんか」 「それはある。いくらでもある」  と、和尚はことばをつよめて、 「この山には、ふかいふかい鍾乳洞《しようにゆうどう》がある。土地のものはクモの巣の岩屋とよんでいるが、まるでクモの巣のように、四方八方へひろがって、だれもそのおくを、つきとめたものはないのじゃ。なんでもその洞窟《どうくつ》のなかには、海の底までつづいているものもあるという」  俊助と進は、思わず、顔を見あわせた。ひょっとすると、その洞窟が烏帽子《えぼし》岩まで、つづいているのではあるまいか。 「だから、そういう洞窟のなかへつれこまれたら、こんりんざい、ひとの目につくことはあるまい。なにしろ、なかは迷路《めいろ》のようになっているんだからな」  それを聞くと進は、なんともいえぬきみわるさをかんじた。ああ、そういうおそろしい洞窟のなかへ、つれこまれたひとみは、いまごろどうしているのだろうか。 「ときに、了仙さん」 「はあ」 「あなたの出あった自転車の男ですがね。そいつはもしや、まっ青《さお》な髪《かみ》の毛をしていやあしませんでしたか」 「な、な、なに、まっ青な髪だって?」  和尚《おしよう》や了仙のおどろきが、あまり大きかったので、かえって俊助がびっくりして、 「あなたがたは青い髪の男をごぞんじですか」 「ふむ、しらぬこともない。しかし、了仙、おまえのあったのはあの男だったのかい」 「いいえ、和尚さん、ちがいます。青い髪の男ではありません」 「しかし、和尚さん、青い髪の男というのは……?」 「さあ、それじゃ」  と、和尚もふしぎそうに首をかしげて、 「わしも、あの男がどこに住んでいるのかしらん。ときどき、すがたを見ることがあるが、こっちのすがたを見ると、こわいもののようににげてしまう。ひょっとすると、あの洞窟のなかに住んでいるのじゃないかと、村のひとたちはいっている。なにしろミイラのような顔に、まっ青な髪の毛だから、女子《おなご》どもはこわがって、青い髪のゆうれいだというている。しかし、べつにわるいこともせんので、ほうってあるが、まあ、頭のおかしい人間じゃろうな」 「そして、そいつ、いつごろから、ここにいるんですか」 「さあ、もうひと月ぐらいになろうかな。どこからともなく、ときどき、ひょいとすがたをあらわすのだが、わしがいちばんちかごろみたのは、一週間ほどまえ、三月十五日の晩《ばん》のことだったな」 「な、な、なんですって、三月十五日の晩ですって。和尚さん、まちがいはありませんか」 「了仙、まちがいはないな」 「はい、まちがいはありません。たしかに三月十五日の晩でした」  俊助と進は、ぼうぜんとして顔を見あわせた。  君たちもおぼえているだろう。三月十五日といえば、ひとみの誕生日《たんじようび》。その晩《ばん》、ひとみと進は、ガラス工場の地下室で、青髪鬼《せいはつき》のために水攻《みずぜ》めにされたのだ。  そのおなじ晩に、和尚や了仙は、この村で青髪鬼《せいはつき》を見たという。それでは、青髪鬼はふたりいるのだろうか。    洞窟《どうくつ》の怪人《かいじん》  ひとみはいったい、どれくらいながく気をうしなっていたのだろうか。ふと気がつくと、まっ暗がりのなかにねているのだった。 「あら!」  と、びっくりして起きなおると、あわててあたりを見まわしたが、うるしをぬりつぶしたようなやみのなか、なにひとつ見わけることもできない。ひとみはいそいで手さぐりで、あたりをさわってみたが、手にふれるのはしめった土のようだった。 「まあ、それじゃあたし、地面のうえにねていたのかしら」  ひとみはふと、気をうしなうまえのことを思い出した。  あばれ馬車のうえで、むちゅうですくいをもとめているうちに、俊助や進ともみるみるとおくはなれてしまって、やがてたんぼみちへさしかかったときだった。  ふいに横からとびだしてきた、自転車にのった男が、 「とびなさい。思いきって、たんぼのなかへとびなさい!」  と、大声でさけびながら、馬車のあとから追ってきた。  その声にはっと気がついたひとみは、いわれるままに、さっと馬車からたんぼをめがけてとびおりたが、それきりふっと気をうしなって、あとのことはいっさいしらないのである。 「まあ、それじゃあたし、まだたんぼのなかにねているのかしら。そして、日がくれたのでこんなにまっくらなのかしら」  しかし、それにしてもすこしへんだった。いかに闇夜《やみよ》とはいえ、いくらかはものかげが見えそうなものなのに、あたりはまるで、黒いビロードにつつまれたような暗やみなのだ。おまけに、どんなに耳をすましても、なにひとつ、もの音はきこえない。  ひとみはきゅうに、なんともいえぬほど心ぼそくなって、いまにも泣きだしそうになったが、そのとき、ふと、ポケットに万年筆がたの懐中電燈《かいちゆうでんとう》のあったことを思い出した。いそいでポケットをさぐってみると、さいわい落しもせずに懐中電燈は、まだそこにあった。  ひとみはそれであたりを照らしてみたが、そのとたん、思わずアッといきをのみこんだ。  そこはなんと土ろうのような穴《あな》のなかだった。右も左も、上も下も、しめって、ジメジメとした土のかべで、しかもこの穴は、どこまでも、どこまでもつづいているらしいのだ。  ひとみはなんともいえぬおそろしさに、声も出ず、ただ、ガタガタとふるえていたが、ふとみると、そばになにやらおいてあった。それは、小さなバスケットと水筒《すいとう》だった。 「まあ!」  ひとみは目をみはりながら、こころみにバスケットをひらいてみると、なかにはおいしそうなサンドウィッチが、ぎっしりつまっているではないか。 「まあ!」  ひとみはまた目をみはった。  このサンドウィッチや水筒《すいとう》は、じぶんのためにおいていってくれたのかしら。そういえばひとみのねていたところには、レイーン・コートがしいてある。 「ああ、だれかがあたしを、ここへつれてきてくれたのだわ。そして、土のうえにじかにねかせて病気になってはいけないと、レイーン・コートをしいていってくれたのだわ。それからこのバスケットや水筒をおいていってくれたのだわ。そうすると、そのひとはきっとあたしのみかたにちがいない」  ひとみはやっと安心した。安心するときゅうにおなかがすいてきた。  水筒のせんをぬくと、なかにはあまい紅茶《こうちや》がつまっていた。  ひとみはそれでのどをうるおし、サンドウィッチをたべはじめたが、そのときだった。  だしぬけにやみのなかから、 「お嬢《じよう》さん、わたしにもひとつ、サンドウィッチをわけてくださらんか」  と、|か《ヽ》のなくような声がきこえたので、 「キャッ!」  とさけんで、ひとみはとびあがった。 「だ、だれ? そ、そこにいるのは……?」  ひとみはふるえる手で懐中電燈《かいちゆうでんとう》をむけたが、そのとたん、全身の血がこおるようなおそろしさを感じた。なんと、二、三メートルむこうの土のうえに、しょんぼりすわっているのは青髪鬼《せいはつき》ではないか。 「お嬢さん、わたし、腹《はら》がへってたまりません。サンドウィッチをわけてください」  青髪鬼はあわれっぽい声でいいながら、こちらへにじりよってきた。ひとみはあまりのおそろしさに、動くこともできない。青髪鬼は、ひとみのそばまでよってくると、サンドウィッチをひとつつまんで、むしゃむしゃとたべはじめた。  ひとみはガタガタふるえながら、あいてのようすを見ていたが、しだいにみょうな気がしてきた。いつもとちがって、きょうの青髪鬼には、すこしも危険《きけん》らしいところがないのである。  いやいや、青い髪といい、ミイラのようなはだといい、見たところはきみがわるいのだが、いかにもおとなしそうなようすなのである。  青髪鬼《せいはつき》はサンドウィッチをたべおわると、 「お嬢《じよう》さん、あの、もうひとつたべてもいいですかな」  と、はずかしそうにまばたきをしたが、その目つきにも、いかにも善良《ぜんりよう》そうな色があらわれていて、いつもの青髪鬼とは、まるでちがっているのだ。  ひとみはだんだんおちついて、 「ええ、どうぞ、いくらでもめしあがれ。あの、でも、おじさん、あなたはだれなの。どうしてこんなところにいるの」  ひとみが思いきってたずねると、青髪鬼は悲しそうに首をふりながら、 「わたしがだれ……? ああ、わたしはいったいだれなのじゃ。お嬢さん、それがわたしにはわからないんじゃ。じぶんがどこのどういうものか、わたしはわすれてしもうたのじゃ」 「まあ!」  と、ひとみは目をみはって、 「あなたはもしや、鬼塚三平《おにづかさんぺい》さんじゃありませんの」 「鬼塚……? 三平……?」  青髪鬼はふしぎそうにまゆをひそめて、 「鬼塚三平……? 鬼塚三平……? ああ、なんだか聞いたような名まえだ。たしかに、どこかで聞いたことがある……しかし、お嬢さん、そういうあんたはだれじゃな」 「あたし、月丘《つきおか》ひとみですわ。月丘|謙三《けんぞう》の子どものひとみですわ」 「月丘謙三……月丘謙三……おお、たしかに聞いたことがある。そして、あんたはその謙三のお嬢さんのひとみというのかな」 「そうですわ。そして、いつかあなたは、あたしを殺そうとしたではありませんか」 「えっ! わたしがあんたを!」  青髪鬼は目をまるくして、 「と、とんでもない。わたしは人殺しをするような悪人ではない」 「でも、あなたは古家万造《ふるやまんぞう》さんを殺そうとしましたわ。そして、神崎《かんざき》博士を殺してしまいましたわ」 「えっ、古家万造……神崎博士……ああ、たしかにどこかで聞いたことがある……古家……神崎……月丘……そして、そして鬼塚三平……」  青髪鬼は両手で頭をかかえこんで、しきりになにやらつぶやいていたが、そのときだった。  やみのなかから、するするとヘビのようにはいよったひとつのかげが、はっしとばかり青髪鬼のあたまに、なにやらふりおろした。  もし、そのとき、青髪鬼が本能《ほんのう》的に身をさけなかったら、おそらく頭をぶちわられて、たちどころに死んでいたことだろう。  ひとみもはっと、二、三歩あとへとびのくと、とっさに懐中電燈《かいちゆうでんとう》をとりなおし、いま青髪鬼をおそったかげにむけたが、こんどこそ、ひとみは全身の血が、こおってしまうようなおそろしさをかんじたのである。  なんと、暗やみのなかに仁王《におう》立ちになって、さか手ににぎったピストルを大上段《だいじようだん》にふりかぶっているのは、これまた青髪鬼ではないか。  しかも、あのおそろしい目つき、ねじれたくちびる……これこそ、いつかひとみを水攻《みずぜ》めにして、殺そうとした青髪鬼なのだった。    さて、話がかわって、こちらは三津木俊助《みつぎしゆんすけ》と探偵小僧《たんていこぞう》の御子柴進《みこしばすすむ》である。了海和尚《りようかいおしよう》と了仙《りようせん》から、クモの巣《す》の岩屋の話をきくと、すぐに出かけることにした。  クモの巣の岩屋の入口というのは、太平寺のうら山の、たかい崖《がけ》のしたにあるのだ。その崖のうえに立って見ると、月の光にくっきりと海からそびえ立つ烏帽子《えぼし》岩のすがたが見えた。  そこまでは、わかい了仙が案内してきたのだが、それからさきへはどうしても、進もうとはしない。 「あっはっは、いいですよ、いいですよ。きみは、はやくかえって、和尚さんのそばにいてあげたまえ。また、わるいやつがくるといけないからね」 「はい、それではこれで……」  と、にげるように山をくだっていく、了仙のうしろすがたを見送って、俊助と進は崖をおりていった。  崖のしたには人間ひとり、やっとくぐれるくらいの穴《あな》があいていて、のぞいてみるとなかはまっくらだ。 「探偵小僧、きみはこのなかへはいっていく勇気があるか」 「三津木さん、いっしょにつれていってください」 「よし」  それぞれ懐中電燈《かいちゆうでんとう》をふりかざし、ふたりは洞窟《どうくつ》のなかへはいっていった。はじめのうちは、やっと立ってあるけるくらいの高さしかなかったが、ものの十メートルもいくと、洞窟はしだいにひろくなってきた。  ふたりは全身の神経《しんけい》をきんちょうさせて、用心ぶかくすすんでいったが、やがて、はたとこまったように立ちどまった。  道がそこで三つまたになっていて、どちらへ進んでよいのかわからない。 「探偵小僧、なにかめじるしになるようなものはないか、さがしてみよう」 「はい」  ふたりは目をさらのようにして、洞窟のなかをさがしていたが、とつぜん、進がうれしそうなさけび声をあげた。 「あっ、三津木さん、ここに自転車のあとがついています」 「なに、自転車のあと?」  見ればなるほど、しめった土のうえに、タイヤのあとがついている。 「ああ、これはきっと、ひとみさんをのっけていった自転車のあとにちがいない」 「それじゃ、このタイヤのあとをつけていけばいいのですね」 「そうだ、そうだ。こんないい道しるべはない。これをつけていこう」  こういうはっきりとした道しるべがみつかったので、ふたりはもうまよう心配はない。クモの巣《す》という名まえがついているだけあって、洞窟《どうくつ》のなかには、いたるところに、わき道や、枝道《えだみち》があったが、ふたりはタイヤのあとをつたって、まようこともなく、おくへおくへと進んでいった。  その道は、おくへ進むにしたがって、しだいに下へさがっているのだ。 「三津木さん、やっぱりこの洞窟の道の一つが、あの烏帽子《えぼし》岩までつづいているんですね」 「うん、きっとそうだ」  それからまた、ふたりは無言で、洞窟のおくへと進んでいったが、やがて、とあるまがり角をまがったときだった。 「だれか! そこにいるのは!」  とつぜん、俊助がさけんだかと思うと、さっと懐中電燈《かいちゆうでんとう》の光を、前方のやみにむかってさしむけた。    影《かげ》の人の正体  俊助《しゆんすけ》の声があまりだしぬけだったので、進もびっくりしてとびあがったが、と見れば、懐中電燈の光のなかに、くっきりとうかびあがったのは、自転車を持った男のすがたである。  自転車を持った男は、だしぬけにうしろから、懐中電燈の光をむけられ、 「しまった!」  とさけぶと、自転車をすてて、にげだした。道がわるいので、とても自転車にのってはいけない。 「待て!」  とさけんで、追っかける俊助のあとから、進も走っていった。  自転車の男は、よほど洞窟の地理にあかるいとみえ、くらがりのなかをネズミのように走っていったが、そのうちに、なにかにつまずいたとみえて、よろよろよろめいたあげく、ばったり土のうえに倒《たお》れた。  それを見ると、 「しめた!」  とさけんだ、三津木《みつぎ》俊助、起きなおろうとするあいての背中《せなか》に馬のりになると、すばやくピストルを取りだして、ピタリと後頭部におしつけた。 「抵抗《ていこう》するとこれだぞ」 「いや、もう抵抗はせん。三津木君、すまないがそこをどいてくれたまえ」 「えっ?」  あいてが意外におとなしいうえに、じぶんの名まで知っているので、俊助はびっくりしてとびのくと、 「きみはだれだ」 「いま話す」  あいてはよろよろ起きなおったが、見ると黒いふろしきで、目から下をかくしている。  それを見て、思わずさけんだのは進だった。 「あっ、あなたは影の人!」  それを聞いて、あいてはかすかにうなずいた。  ああ、そのひとこそは、いつか進とひとみ、白蝋仮面《びやくろうかめん》が、青髪鬼《せいはつき》のために水攻《みずぜ》めにされ、あやうく殺されようとするところを、助けてくれたひとではないか。 「ああ、そ、それじゃあなたが影の人でしたか。これは失礼しました。しかし、いったいあなたはどなたです。顔を見せてください」  影の人はかすかにうなずき、無言のまま顔からふろしきをとったが、ああ、そのときの俊助と進のおどろき! 「あっ、あなたは神崎《かんざき》博士!」  とさけんだきり、ふたりとも、ぼうぜんとして、立ちすくんでしまった。  なんと、いまそこに立っているのは、ガラス工場のガラスのプールに落ちて、死んだはずの神崎博士ではないか。 「三津木君と御子柴《みこしば》君もおどろかせてすまなかった」  神崎博士はにっこり笑って、 「ぼくはあのとき、プールへおちたのではなかったのだ。ピストルにうたれたようなまねをして、わざとプールのふちにある棚《たな》のうえに落ちたんだ。そして、そこにこしらえてあったぬけ穴《あな》からぬけだしたんだ」 「しかし……」  と、俊助はまだおどろきのさめやらぬ顔色で、 「あとでプールの検査《けんさ》をしたら、ちょうど人間ひとりぶんの燐《りん》が出てきたというのは……」 「それはぼくが、病院から買っておいた骸骨《がいこつ》を投げこんでおいたからだ」 「しかし、どうしてそんなことを……」 「三津木君、ぼくは死んだものになっていたかったんだ。死んだものになって、青髪鬼や白蝋仮面の手からのがれるとともに、ひとみさんを青髪鬼の魔《ま》の手から、守ろうと思っていたんだ」 「あっ、それじゃ、きのう、ひとみさんを助けたのも……」 「そうだ、ぼくだ。ひとみさんは安全に、この洞窟《どうくつ》のおくにかくしてある。さあ、三津木君も御子柴君も来たまえ」  だが、そのときだった。とつぜん、洞窟のおくから聞えてきたのは、二、三発のピストルの音。それにつづいて、絹《きぬ》をさくような少女の悲鳴……。 「あっ、あれは……」  三人は思わずドキンとして顔を見あわせた。 「あの悲鳴はひとみさんにちがいない。三津木君も御子柴君も来てくれたまえ」  と、いっさんにかけだす神崎博士のうしろから、俊助と進も走っていった。  洞窟《どうくつ》のなかは、いよいよ広く、あみの目のように道がひろがっているが、神崎博士はよほどこの洞窟の地理にあかるいとみえ、道にまようこともなく走っていく。  そして、まもなくやってきたのは、ひとみをねかしておいた袋《ふくろ》小路《こうじ》の入口だった。  そこまできたとき、せんとうに立った神崎博士が、なにかにつまずきよろめいた。 「あっ、こんなところにだれか倒《たお》れている!」 「ひとみさんじゃありませんか」  そういいながら俊助と神崎博士が、同時に懐中電燈《かいちゆうでんとう》の光をむけたせつな、進は、あっとさけんでとびのいた。  なんと、そこに倒れているのは青髪鬼《せいはつき》。しかもその青髪鬼はからだに二、三発、ピストルの弾丸《たま》をうけて、血まみれになってうなっているのだ。 「あっ、青髪鬼がうたれている!」 「あっ、ちょ、ちょっと待ってください」  と、神崎博士は、つらつらと青髪鬼の顔を見ていたが、やがて、ギョッとしたように、進をふりかえると、 「御子柴君、青髪鬼の顔は、きみがいちばんよくしっているはずだが、きみたちを水攻《みずぜ》めにした青髪鬼はこのひとだったかね」  そういわれて進は、ふしぎそうに、そこに倒れている男の顔を見ていたが、にわかに息をはずませると、 「ちがいます、ちがいます。とてもよく似《に》ていますけれど、ぼくたちを殺そうとした青髪鬼は、このひとではありません」 「探偵小僧《たんていこぞう》、それじゃ日比谷《ひびや》公園であったという青髪鬼というのは……?」 「いいえ、日比谷であったのもこのひとではないようです。日比谷であった青髪鬼が、ぼくたちを殺そうとしたんです」  進の話を聞いているうちに、俊助の頭にさっとひらめいたのは、この事件《じけん》のいちばんはじめに、古家万造《ふるやまんぞう》の秘書《ひしよ》、佐伯恭助《さえききようすけ》からあずかった、封筒《ふうとう》のなかにあった二|枚《まい》の青髪鬼の写真のことである。  あの二枚の写真はたいへんよく似ていたが、どこかちがっているようなところもあった。俊助はその写真を青髪鬼第一号、第二号と区別したが、いまそこに倒《たお》れているのは、たしかに青髪鬼第一号である。 「神崎先生、それじゃ青髪鬼はふたりいるんですか」 「いいえ、青い髪《かみ》の男は、ここに倒れているこの人物ひとりです。三津木君、この男こそほんものの鬼塚三平《おにづかさんぺい》なんですよ」 「それじゃ、もうひとりの男は……?」 「さあ、わたしにもだれだかわかりません」  と、神崎博士はちょっとことばをにごして、 「とにかく、わたしはふしぎでならなかったのです。鬼塚君はマレーのコバルト鉱山《こうざん》を脱出《だつしゆつ》して、日本へかえってくると、わたしと古家万造氏にあいにきました。そのとき、わたしは鬼塚君にあやまったのです。そして、ひとみさんに毎年ダイヤを送っているという話をすると、鬼塚君もゆるしてくれました。ところが、それからまもなく、とつぜん、鬼塚君のゆくえがわからなくなりました。そして、あのへんてこな死亡《しぼう》広告が新聞に出たのです」  神崎博士はためいきをついて、 「そのとき、古家万造氏は、てっきりあれは鬼塚君のしわざにちがいない。鬼塚君がわれわれ三人の命をねらっているのだと、たいへんこわがっていました。それを聞いてわたしはへんな気がしたんです。鬼塚君はそんなひとではないし、だいいち、ひとみさんをねらうはずはないのです。だから、だれかが鬼塚君にばけて、われわれを殺そうとしているのではないか。……そう思ったものだから、わたしは死んだものになって、すがたをかくし、かげながらひとみさんをまもるいっぽう、鬼塚君のゆくえをさがしていたんです」  神崎博士の話をきいて、俊助や進にも、ようやくことのいきさつがわかってきた。 「しかし、神崎先生、それじゃ、鬼塚君にばけている青髪鬼《せいはつき》とはいったいだれなんです」 「さあ、それは……」  神崎博士がなぜかいいしぶっているときだった。とつぜん、洞窟《どうくつ》のおくから聞えてきたのは、またしてもピストルの音。しかも、こんどははげしくうちあうピルトルの音……。    クモ岩の怪《かい》 「やあ、あの音はなんだ!」 「神崎《かんざき》先生、いってみましょう」 「しかし、鬼塚《おにづか》君をどうしたものか」  神崎博士がためらっているところへ、 「そこにいるのは三津木《みつぎ》さんじゃありませんか」  と、声をかけてちかづいてきたのは、通信員の河野《こうの》記者。 「すみません。すっかりねこんじゃって。さっき目がさめたら、三津木さんはこっちだというんで、いそいで追っかけてきたんです」  河野青年は面目《めんぼく》なさそうに頭をかいている。 「ああ、河野君、いいところへ来た。このひとを医者へつれていってくれたまえ」 「え?」  河野青年は足もとに倒《たお》れている、鬼塚三平のすがたを見ると、びっくりしてとびのいた。 「こ、こ、これは、ど、どうしたんです」 「なんでもいいから、大急ぎで医者へつれていくんだ。そうだ。ここへくるとちゅうに自転車があったろう。あれを借りていきたまえ」 「しょうちしました。しかしあなたは……?」 「ぼくはまだ、この洞窟《どうくつ》のおくに用がある。それじゃあとはたのんだぞ。さあ、神崎先生、探偵小僧《たんていこぞう》、いこう」  と、あとは河野青年にまかせておいて、三人はまた洞窟のおくへすすんでいった。  ピストルの音はそれきりたえて、洞窟のなかには、死のようなしずけさがただよっている。  おくへ進むにしたがって、洞窟は、いよいよ網《あみ》の目のように、どこまでも広がっているのだ。しかも進むにしたがって、道はしだいにさがっていく。  やがて三人のゆくてにあたって、ほんのりとあかりが見えてきた。 「おや、神崎先生、あのあかりはなんですか」 「あれは、月の光です。月光が、さしこんでいるのです」 「え、それじゃ、洞窟の出口へきたんですか」 「いや、そうじゃありません。いまにわかりますよ」  やがて、一同がたどりついたのは、二十メートル四方もあろうという、天井のたかい、洞窟内の大広場。しかも、その洞窟の一部分に、小さい穴《あな》があいていて、そこから月の光がさしこんでいるのだ。 「そこから外をのぞいてごらんなさい」  神崎博士のことばに、ふたりは外をのぞいたが、そのとたん、思わずアッとさけんだ。  その岩のすぐ外がわは海になっているらしく、打ちよせる波の音が、足もとにとどろいている。しかもその穴のむこうに、月光をあびて、くっきりと海上にうかびあがっているのは、なんと烏帽子《えぼし》岩ではないか。 「あっ、そ、それじゃやっぱり、これが烏帽子岩へわたる通路なんですね」 「そうです、そうです。このへんには昔、海賊《かいぞく》がおおかったといいますから、海賊がこういう通路をつくったんですね。それをひとみさんのおとうさん、月丘謙三《つきおかけんぞう》君が発見して、われわれの秘密《ひみつ》の工場に利用したんです」 「秘密の工場って?」 「いまにわかります。それより、この岩をごらんなさい」  神崎博士にそういわれて、うしろをふりかえった俊助と進は思わず、アッと目をみはった。  大広場いっぱいに、足をひろげてうずくまっているのは、クモそっくりの形をした、大きな岩ではないか。ああ、それでは暗号に書いてあったクモというのは、この岩をさしていたのだろうか。 「この岩が、大宝窟《だいほうくつ》へはいる扉《とびら》になっているのです」  神崎博士のことばもおわらぬうちに、またもや、ズドン、ズドンと、ピストルをうちあう音。しかも、こんどは地の底からひびいてくるではないか。  そして、そのピストルの音にまじって聞える声は、たしかに白蝋仮面《びやくろうかめん》である。しかも白蝋仮面はなにやら大声でわめいている。その声にまじって聞えるのは、絹《きぬ》をさくようなひとみの悲鳴。 「神崎先生、神崎先生、あなたは、この扉の開きかたをごぞんじないのですか」 「いいえ、知っています。さっそく開いてみましょう。しかし、三津木君」 「はい」 「どうやらこのなかには白蝋仮面もいるらしい。ピストルの用意をしてください」 「しょうちしました」  三津木|俊助《しゆんすけ》は腰《こし》のピストルに手をやって、さっときんちょうした顔色になった。 「御子柴《みこしば》君、きみも気をつけたまえ。青髪鬼《せいはつき》にしろ、白蝋仮面にしろ、どちらもおそろしいやつだから」  と、そういうことばももどかしく、神崎博士は、大グモのかたちをした岩のまわりを、まわっていたが、やがて、とある一本のクモの足の下に手をつっこむと、なにやら力まかせにおしていたが、と、どうだろう。  どこやらで、ギリギリギリギリと、くさりのきしるような音がきこえたかと思うと、クモの目玉にあたる岩のひとつが、一メートルほど横にずれて、そのあとにぽっかりあいたのは人ひとり、やっと通れるくらいのたて穴《あな》だったのだ。 「三津木君、御子柴君、大いそぎで穴のなかへとびこんでくれたまえ。この扉は、しぜんとしまるしかけになっているんです」  神崎博士のことばに、俊助がまずいちばんに、つづいて進がとびこんだ。そして、さいごに神崎博士がとびこんだとたん、ギリギリ、ギリギリ……と、きみのわるい音をたてて、クモの目岩はしぜんとしまってしまった。 「神崎先生、この岩はなかからも開くことができるんですか」  進が心配になってたずねると、 「は、は、は、それはだいじょうぶ。それでなければ、いったんここへはいったひとは、外へ出られなくなるもの」 「神崎先生、それではほかに出口はないのですか」 「いいや、三津木君、もうひとつ出口があるんだ。いまは潮《しお》がひいているから、それをぼくは心配しているんだ」 「潮がひくとどうなるんですか」 「烏帽子《えぼし》岩の根もとに、洞窟《どうくつ》がひとつあいてるんだ。潮がみちるとその洞窟は、波の下にかくれるんだが、潮がひくとその入口があらわれる。このあいだ調べたところが、青髪鬼《せいはつき》のやつ、その洞窟のおくに、モーターボートをかくしているんだ。だから……」 「あっ、それじゃいそぎましょう。ここまで追いつめて青髪鬼を取りにがしちゃたいへんだ」 「そうです。そうです。それに、ひとみさんのこともあるし」  もちろん、こういう話をしているあいだも三人は足をいそがせていた。  そのたて穴《あな》にはすりへった岩の階段ができていた。潮がみちると、この階段も波の下になるとみえ、階段には、いっぱい海草がこびりつき、どうかするとすべりそうになる。  三津木俊助は、懐中電燈《かいちゆうでんとう》の光をたよりに、このあぶなっかしい階段を、まず先頭に立っていった。そのうしろから進と神崎博士が、一歩一歩用心しながら、おっかなびっくりでおりていく。  岩の階段は三十段ほどあったが、それがつきるとよこ穴になった。 「神崎先生、神崎先生、それじゃ、ここは海の底なんですね」 「そうだよ、御子柴君、潮がみちるとこの洞窟も、海水でいっぱいになるんだ」 「なんだかきみがわるいなあ」  進はひざがしらが、ガクガクふるえるかんじだった。  よく静かなことを、海の底のような静けさというが、いまこそ三人は海の底にいるのだ。その静けさのきみわるさといったらない。  三人は、はうようにしてその洞窟にすすみながら、 「それにしても神崎先生。あれきりピストルの音も、さけび声もきこえなくなりましたが、みんな、どうしたんでしょう」 「それをぼくも心配しているんだ。まさか、みんな死んでしまったのじゃあるまいね」  神崎博士は声をふるわせたが、そのときだった。  またもや、ゆくてにあたって、ズドン、ズドンと、ピストルの音。とじこめられた洞窟内の空気にこだまして、耳の鼓膜《こまく》もやぶれんばかりに、ひびいてきた。    青髪鬼はだれ? 「あっ、まだ、生きているぞ!」  進はそのときほど、ピストルの音をうれしくかんじたことはなかった。白蝋仮面《びやくろうかめん》や青髪鬼《せいはつき》が生きているなら、ひとみもまだ生きているかもしれないと思ったからである。  三人は、洞窟内を脱兎《だつと》のごとく走っていくと、やがてまた岩の階段にぶつかった。 「三津木《みつぎ》君、気をつけたまえ、あまりあわてるとすべりますよ」 「しょうちしました」  ぬるぬるした海草におおわれた階段の、とちゅうまで来たときだった。ズドンと一発、ピストルの音がひびいたかと思うと、 「わっ!」  と、たまげるような男のさけび声。それにつづいて、ドサリとなにかが倒《たお》れる音。三人は、はっと顔を見あわせた。 「青髪鬼か白蝋仮面《びやくろうかめん》がやられたんですね」 「ひ、ひとみさんはどうしたんでしょう。ちっとも声がきこえませんが……」 「しっ、だれかが烏帽子《えぼし》岩のなかを歩きまわっている」  なるほど、耳をすますと上のほうから、いそがしく歩きまわる足音がきこえてきた。なにやらかきまわしているらしく、ときどき、ガタンとなにやら倒れる音がして、それにつづいて、パラパラと豆をばらまくような音がきこえた。 「あっ! しまった。ダイヤモンドをもっていこうとしているんだ!」  神崎《かんざき》博士のことばにつづいて、 「だれか! そこにいるのは!」  と、三津木|俊助《しゆんすけ》がきっとピストルを身がまえながら、するどい声をかけた。すると、きゅうに、上のもの音がぴったりやんだかと思うと、やがてなにやらガサゴソと、みょうな音をたててまっ暗な階段《かいだん》をおりてきた。  いや、人間の足音ではない。ガサゴソ、ガサゴソ……うごめくような、はうような、なんともいえぬうすきみわるいもの音が、しだいにこちらへおりてくるのだ。  さすがの三津木俊助も、全身の毛という毛が、さか立つようなおそろしさをかんじながら、それでもさっと懐中電燈《かいちゆうでんとう》の光を、上のほうへさしむけていたが、すると、どうだろう。  暗やみのなかから、のっそのっそとはいおりてきたのは、なんと直径一メートルもあろうという、大グモではないか。そういう大グモが、いやらしい足をかわるがわる、ふるえるようにあげて、おりてくるきみわるさ。  一同はしばらくシーンとしびれたように、その場に立ちすくんでいたが、だしぬけに、気がくるったようにさけんだのは進だった。 「あっ、クモだ! クモだ! 大グモだ! 日比谷《ひびや》公園で、佐伯《さえき》さんの顔のうえをはっていたクモだ!」  進がさけんだせつな、 「おのれ!」  と、ばかりに俊助が、ピストルを打ちはなせば、ねらいはあやまたずクモに命中したが、ああ、なんということだろう。そのとたん、 「パン!」  と、みょうな音がしたかと思うと、クモのすがたが、いっぺんにちぢこまってしまったではないか。 「あっ、ゴム風船だ!」  一同が、あっけにとられて、たがいに顔を見あわせているところへ、上のほうからきこえてきたのは、どくどくしい白蝋仮面《びやくろうかめん》のわらい声。 「あっはっは! 三津木俊助、おどろいたか。青髪鬼《せいはつき》のやつが用意していた、クモのおもちゃで、ちょっとおどかしてやったんだ。あっはっは!」  と、ふたたびどくどくしい笑い声をあげると、た、た、た、た、た……と、足音がとおざかっていく。    こっぱみじん 「しまった! 烏帽子《えぼし》岩の根もとの入口から逃《に》げていくんだ!」  神崎《かんざき》博士がいちばんに、階段《かいだん》をかけのぼっていった。そのあとから進と三津木俊助《みつぎしゆんすけ》。やっと階段をかけのぼると、そこは二十メートル平方ほどの、烏帽子岩の内部になっていて、ここにも岩のさけめから、かすかに月光がさしこんでいる。  その月光と懐中電燈《かいちゆうでんとう》の光で、あたりを見まわした三人は、思わずギョッといきをのみこんだ。  岩でできた床の中央には、大きな機械がすえてあり、その機械のまわりには、血がいっぱいとんでいる。しかも、その血にまじって、星のようにちらばっているのは、なんとおびただしいダイヤモンド。 「あっ、こ、このダイヤモンドは……」  びっくりして立ちすくんでいる三津木俊助と進には目もくれず、神崎博士は懐中電燈で、洞窟《どうくつ》の内部をしらべていたが、 「あっ、あそこにひとみさんが……」  見ればなるほど洞窟のすみの粗末《そまつ》なベッドに、少女がひとり、あおむけに寝《ね》かされているのだ。  それを見ると三人は、イナゴのようにベッドのそばへとんでいった。 「ひとみさん、ひとみさん」  神崎博士はいきなりひとみを抱《だ》きおこし、声をかぎりにさけんだが、ひとみの返事はない。 「し……死んでいるのですか」  進はガチガチと歯をならしてふるえている。こわいのではない。ひとみのことが心配なのだ。 「いいや、死んじゃいない。気をうしなっているんです。しかし、どこかにけがは……」  神崎博士はいそがしく、ひとみのからだをしらべていたが、 「ありがたい。どこにもけがはしていない。ただ、あまりのおそろしさに気をうしなったんだ。三津木君、三津木君」 「はあ」 「白蝋仮面《びやくろうかめん》が逃げたとすると、そこらに青髪鬼がいるはずだ。さがしてくれたまえ」 「あっ、そうだ」  あらためて、洞窟《どうくつ》の内部を見まわす俊助と進の目に、ふと、うつったのは、機械のむこうから、にょっきりのぞいている二本の足。 「あっ、あそこに倒《たお》れている!」  ふたりがそのほうへかけよろうとしたときだった。下のほうからきこえてきたのは、ダ、ダ、ダ、ダ、ダという、エンジンのひびき。 「あっ、白蝋仮面がモーターボートで逃《に》げていく」 「三津木君、こちらへ来たまえ!」  走っていく神崎博士のあとについていくと、さっき、のぼってきた階段《かいだん》と、べつの方角に、もう一つ岩の階段があった。三人がすべるようにその階段をおりていくと、やがて岩の扉《とびら》にぶつかった。  神崎博士はそれを開こうとしたが、どういうものか開かない。 「しまった。白蝋仮面のやつがしかけをこわしていったんだ。三津木君、もういちど、うえへあがろう!」  三人はひきかえして、またもとの洞窟の内部に来たが、そのとき、とおざかっていくモーターボートのエンジンの音がきこえてきた。 「ちくしょう、ちくしょう」  神崎博士はくやしそうにさけびながら、岩のさけめへかけよると、そこから外をのぞいた。三津木俊助と進も、同じように、岩のさけめを見つけて外をのぞいたが、見れば全身に月光をあびながら、モーターボートに乗って逃げていく、白蝋仮面のうしろすがた。  白蝋仮面はハンドル片手にふりかえると、烏帽子《えぼし》岩にむかって、あざけるように手をふっていたが、そのうちに、水中にかくれた岩に乗りあげたからたまらない。  ドカーン!  ものすごい音響《おんきよう》とともに、モーターボートはこっぱみじんとくだけて、空中たかく吹《ふ》きあげられてしまった。  白蝋仮面も四、五メートル、もんどりうってはねとばされたが、やがてしぶきをあげて、海中へおちてきたかと思うと、それきり浮《う》きあがってはこなかった。    大団円《だいだんえん》  三人はしばらく海上を見つめていたが、やがてほっと顔を見あわせると、 「因果応報《いんがおうほう》とはこのことですね」 「そうです。これで白蝋仮面はかたづきました。あとは青髪鬼《せいはつき》のしまつです」  三人はげんしゅくな顔をして、床《ゆか》のうえに倒《たお》れている、青髪鬼のそばへちかよった。青髪鬼はみごとに心臓《しんぞう》をうちぬかれて、もはや息はない。 「御子柴《みこしば》君、日比谷《ひびや》公園で見た青髪鬼《せいはつき》、それからきみたちを水攻《みずぜ》めにして殺そうとした青髪鬼は、この男だったかね」 「はい、たしかにこのひとです」 「しかし、これはいったいだれ……?」  俊助《しゆんすけ》がふしぎそうに目を見はっているときだった。床《ゆか》にたまっている海水で、ハンカチをしめした神崎《かんざき》博士が、青髪鬼をぬぐいながら、かみの毛に手をかけて、ぐいとかつらをひきぬいたとたん、 「あ、こ、これは古家万造《ふるやまんぞう》……」  俊助と進がおどろいたのもむりはない。それこそ、青髪鬼に命をねらわれていると信じられていた、宝石王《ほうせきおう》、古家万造そのひとではないか。 「そうです。古家万造です。わたしはまえから、万造が青髪鬼にばけているのではないか、と思っていたのです。それですから、死んだものになって身をかくし、万造の挙動をうかがっていたのです」 「しかし、万造はなんだって……?」 「それはここにある、人造ダイヤの機械をひとりじめにするためです」 「じ、人造ダイヤですって?」 「そうです。ひとみさんのおとうさんが、この貴重《きちよう》な秘密《ひみつ》を発明しました。その月丘謙三《つきおかけんぞう》君がなくなると、万造は鬼塚《おにづか》君をあざむいて、マレーのコバルト鉱山《こうざん》へ送ったのです。あとにのこるのは、謙三君のわすれがたみ、ひとみさんとぼくと万造の三人です。万造はわれわれふたりを殺して、この秘密《ひみつ》を独占《どくせん》しようとしていたのですが、そこへ鬼塚君がかえってきたので、毒をのませて、ここに押《お》しこめたのです」 「ああ、鬼塚君は毒のために、記憶《きおく》をうしなったのですね」 「そうです。そして、その鬼塚君にばけてわれわれふたりを殺そうとしたのです」 「なるほど。しかし、それではじぶんに疑いがかかるおそれがあるので、じぶんも青髪鬼にねらわれているように芝居《しばい》をしていたんですね」 「そうです、そうです。ところがその計画をどういうはずみか、秘書《ひしよ》の佐伯《さえき》君にかぎつけられたので、これをいちばんに殺したのです」  ああ、しかし、その万造も白蝋仮面《びやくろうかめん》の弾丸《たま》にあたって死んでしまった。邪《じや》はついに正に勝たずとは、ほんとにこのことなのだろう。  こうして、さしもの悪人古家万造もほろびた。そして鬼塚三平も、その後正気にかえったのである。ひとみは、いまは神崎博士や鬼塚三平の援助《えんじよ》のもと、いままでとうってかわって、幸福な身のうえになったが、ここにひとつ気がかりなのは白蝋仮面のことである。  烏帽子《えぼし》岩の付近の海上は、くまなく捜索《そうさく》されたが、白蝋仮面の死体はついに発見されなかったのだ。  御子柴進はときどき、白蝋仮面が生きていて、じぶんを追っかけてくる夢《ゆめ》をみる。進はそれをおそれながら、またいっぽうでは、もう一度、あのような冒険《ぼうけん》をやってみたいとも思うのであった。 [#改ページ] [#見出し] 廃屋《はいおく》の少女    深夜の客 「おや、お母さまがおきていらっしゃるのかしら。それとも看護婦《かんごふ》さんかしら」  ま夜中ごろ、ふと眼《め》をさました千晶《ちあき》は、紅《あか》いもようの枕《まくら》から頭をもたげると、電気のきえたくらい座敷《ざしき》のなかに瞳《ひとみ》をこらした。ミシリミシリとしのびやかにたたみをふむ音が聞えるのだ。  どうやらふすまひとつへだてた、隣《となり》のへやらしい。 「なんだろう。お父さまが急におわるくなったのではないかしら」  千晶はふと、胸《むね》をつかれるような不安をかんじて、寝床《ねどこ》の上に起きなおった。  千晶の父の御子柴《みこしば》博士は、有名なえらい学者だったが、この春ごろからふと健康を害して、ちかごろでは頭もあがらぬ大わずらい。ここ二、三日というものは、お母さんはほとんど夜もねむらずに、お父さんのそばにつききりで看病している。まだ十二になったばかりの幼《おさな》い千晶が、ともすればめざめがちだったのも、そういう心配があったからなのである。 「おかあさま?——」  千晶はふとそう呼《よ》んでみる。しかし返事はなかった。いままできこえていた足音さえ、ピタリとやんで、息づまるような暗いしずけさ。 「だれ? 看護婦さんなの?」  千晶はおきあがると、音のしないようにふすまを押《お》しひらいて、壁《かべ》ぎわのスイッチをひねったが、そのとたん、冷たい手がいきなり千晶の口をおさえたのである。 「しッ、しずかに、声をたてるとひどいぜ」 「…………」  千晶がはっとして目をあげると、そばにつっ立っているのは、垢《あか》のにじんだ鳥打帽《とりうちぼう》をまぶかにかぶって、ギョロリとしたひとみのものすごい大男。 「あらっ」  と、千晶は思わずこごえでさけんだが、すぐ気がついたように、 「おねがい! 大きな声をなさらないで」 「え? なんだと?」 「お父さまがお病気でねていらっしゃるのよ。おねがいだからしずかにしてね」  いい家庭に育って、やさしい両親からいつくしまれてきた千晶には、世のなかにおそろしいものとてはなに一つない。人はみなたがいにしんせつにしあわなければならぬ、と教えられてきた千晶には、泥棒《どろぼう》さえもこわくなかった。  千晶があまりおちつきはらっているので、男はあきれたように手をはなして、顔をのぞきこんだ。 「お嬢《じよう》さん、おまえさんはわしがどういう人間か、おわかりにならないとみえますね」 「あら、わかっててよ。あなた泥棒《どろぼう》さんでしょう」  男はまた、めんくらったように目をパチクリさせる。まだ若《わか》い、二十五、六の青年なのだ。 「なんでもいいから早く金を出しねえ」  と男は急にこわい声を出した。  千晶はこまったように首をかしげていたが、きゅうに何か考えついたように、 「ああ、そうそう、いいことがあるわ。あたしお金をもっているのよ。それをさしあげますから、もう泥棒なんてするのおよしなさいね」  千晶は机《つくえ》のひきだしをあけると、あかい縮緬《ちりめん》のさいふをとり出して、 「さあ、ここに五万円くらいあるわ。だけど、これだけでたりるかしら」  と、いくらか心配そうになかみをかぞえている千晶の、あどけないようすを見ているうちに、男のようすがしだいにかわってきた。 「お嬢さん」 「なあに、あら、どうなすって? 泣いていらっしゃるのね」 「もったいのうございます。お嬢さん」  男はふいに、たたみのうえへうちふすと、 「聞いてください、お嬢さん。わしにもちょうど、お嬢さんとおなじ年ごろの妹がひとりあります。かわいそうに、その妹が、長いことわずらっているんです」  と、声をのんで泣きながら、 「医者は、病院へ入れなければ、とてもたすかるまいと申します。しかし病院へ入れる金はなし、ええままよ、かわいい妹にゃかえられねえと、わるい考えをおこしたのでございますが、お嬢さんのおやさしさに、わしはつくづくまよいの夢《ゆめ》がさめました」 「まあ、そうだったの」  千晶も思わずもらい泣きをしながら、 「それじゃ、とてもこのお金じゃたりないわね。どうしたらいいかしら。——ああ、いいことがあるわ。あたしずっとまえに、親類のおばさまからいただいた指輪があるのよ」  と、千晶はたんすのひきだしから指輪をとり出すと、 「これ、とても高いんですって。ね、だからこれを売ってそのお金で、妹さんを病院へ入れてあげてくださいな」 「いえいえ、お嬢さん、こんなにいただいちゃ……。」 「いいのよ、ね、いいからこれをもっていってちょうだい。ああ、そうそう、妹さんご病気だと、さぞお淋《さび》しいでしょう。これね、フランスから送っていただいたルミーという、あたしの一番仲よしの人形なの」 「お嬢さん」  男はポロポロと涙《なみだ》をこぼしながら、 「ありがとうございます。ありがとうございます。お嬢さん、このご恩《おん》はけっして忘れやしません」  天使のような千晶のやさしさに、ふとしたまよいの夢《ゆめ》からさめはてて、うれしげに外のやみへ消えていく男の後すがたには、もう二度と悪心をおこすまいというかたい決心が見えるのだ。 「よかったわ。だれも眼《め》をさまさなくて……」  千晶はほっとかるいため息をもらしたが、ああ、あとになって考えれば、この夜のささいなできごとこそ、千晶の身にとって、生か死かという大きな関係をもってくることになったのである。    怪射撃手《かいしやげきしゆ》 「どうだ、千晶《ちあき》。おまえあの軽気球にのってみないかね。弓雄《ゆみお》君、君はどうだね。それはいい気持だぜ。なにしろ東京中が、ひと目で見わたせるんだから」  ここは一週間ほどまえからひらかれた上野《うえの》の産業|博覧会《はくらんかい》。みどりのアーチをくぐると、正面には天を摩《ま》するような産業|塔《とう》がそびえていて、五色の万国旗《ばんこくき》が虹《にじ》のようにはためいている。おりおりドカーン、ドカーンとうちあげられる花火の音のにぎやかさ。  きょうは日曜日、おりからの好天気をさいわいに、叔父《おじ》の御子柴剛三《みこしばごうぞう》と、親戚《しんせき》にあたる弓雄といっしょに、この博覧会の見物にやってきた千晶は、ひととおり場内見物を終って、いましも、よびものの軽気球|掲揚《けいよう》場へやってきたところだった。  まえにのべた事件《じけん》から、半年ほどのちのことである。  この半年ほどのあいだに、千晶の身には、かずかずの悲しいできごとがふってきた。まず第一に、お父さんの御子柴博士がなくなったこと、そして、お父さんがなくなるとどうじに、お母さんも看病《かんびよう》つかれとかなしみのために床《とこ》にふすようになっていた。  もっとも、千晶の父の御子柴博士は、莫大《ばくだい》な財産をのこしていったので、くらしに困《こま》るようなことはなかったが、わるいことには、父がなくなると間もなく、叔父の剛三が屋敷《やしき》へのりこんできた。この剛三という人は、兄の博士とはうってかわって、わかいころから身持《みもち》のわるい人で、博士の生前はなるべく寄せつけないようにしていたが、博士がなくなると、屋敷へのりこんできて、病身のお母さんがなにもいわないのをさいわいに、ちかごろは、まるで自分の家のように、とかくわがままなふるまいが多かった。  その剛三がなにを思ったのか、きょう千晶や親戚の弓雄をともなって、この博覧会へやってくると、さっきからしきりに、軽気球にのるようにと千晶にすすめているのである。 「千晶や、ほら軽気球がおりてきたよ、おまえ乗るなら、わたしがキップを買ってあげよう」  と、早くも大股《おおまた》にキップ売場のほうへ行く。見上げれば軽気球はたぐり寄《よ》せる綱《ロープ》とともに、スルスルと地上へおりてくるところだった。 「さあ、千晶、キップ買ってきたよ。弓雄君、君もいっしょにのりたまえ」 「あら、おじさまはお乗りにならないの」 「ああ、わたしはもうまえに一度のったことがあるから、今日はよそう。弓雄君とふたりで乗ればいいだろう」  千晶はその時、なんとなく不安そうな顔をした。 「なにもこわいことはありゃしないよ。ねえ、弓雄君、君は乗るだろう」 「ええ、乗りましょう。千晶さん、だいじょうぶですよ。僕がついているからこわいことなんかありゃしない」  千晶より三つ年上の弓雄は、元気にそういうと、早くも軽気球のかごにかけた梯子《はしご》に足をかける。K中学の三年生で、金ボタンの制服《せいふく》すがた、いかにも|りりしい《ヽヽヽヽ》感じのする少年だった。  千晶はなんとなく気がすすまなかったが、叔父《おじ》があまり熱心にすすめるので、ついその気になって弓雄のあとから乗りこんだ。 「お嬢《じよう》さんと、坊《ぼつ》ちゃんのふたりきりですね。それじゃあげますよ」  と、気球番のじいさんがハンドルを廻《まわ》すとともに、車にまいた綱《ロープ》がするするとゆるんで、軽気球はゆるやかに晴れわたった空へとのぼっていく。 「やあ、すてきだ。千晶さん、見てごらん、むこうの産業|塔《とう》がだんだん、地の底へめりこんでいくような気がするぜ」 「あら、ほんとうね。そして、おじさまのすがたが、あれ、あんなに小さくなっていくわ」  かごのなかから見まわせば、博覧会《はくらんかい》の建物が、しだいに下へめりこんでいくと、やがて上野《うえの》から浅草《あさくさ》、そして、遠く帯のように流れている隅田《すみだ》川までが、手にとるように見わたせるのだ。やがて、ググンと軽気球が大きくゆれたかと思うと、ピンと綱《ロープ》が張《は》りきれそうな一直線になった。  と、この時である。  あの産業塔のてっぺんに、さっきからうずくまっていたひとりの男が、ふいにスックと立ちあがると、しばらくこの気球のなかをながめていたが、やがて、ふとその目を地上にうつした。見ると軽気球の掲揚《けいよう》場をとりまいた蟻《あり》のような群衆《ぐんしゆう》のなかに、御子柴剛三が、しきりに帽子《ぼうし》をふっているのが、はっきりと見えた。  剛三はしばらく軽気球にむかって帽子をふっていたが、やがてなにか合図でもするように、大きく宙に、三度輪をえがいた。これを見るや、塔上の怪人《かいじん》は、ニヤリと気味わるい微笑《びしよう》をもらすと、そっと洋服の下から取り出したのは一|挺《ちよう》のピストル。あっ、いったい、この男はなにをするつもりだろう。  男はあたりを見まわして、だれも見ていないことをたしかめると、袖《そで》でかくすようにしながらピストルをかまえる。  一|瞬《しゆん》、二瞬——  やがて、ドカーンと花火をうちあげる音がした。と同時に、怪人のかまえた銃口《じゆうこう》から、パッと白いけむりがあがったと思うと、そのせつな、張《は》りきった綱《ロープ》がぷっつりと切れたからたまらない。ググンと一ゆれ、気球がななめに大きくゆれたかと思うと、やがてフワフワと空高くまいあがっていく。  ああ、奇怪《きかい》な男! こいつはあの綱をねらっていたのだ。そして、なんというたくみな射撃手《しやげきしゆ》であろう。たった一発のもとに、あの細い綱をプッツリと断《た》ちきってしまったのである。 「わっ!」  とあがるおどろきの声。 「大へんだ! 軽気球の綱が切れた!」  博覧会《はくらんかい》の会場はたちまち、上を下への大さわぎ。そのあいだに塔上《とうじよう》の怪人《かいじん》は、いち早く、ピストルを洋服のポケットにかくすと、こそこそと塔をおりていって、まもなくいずこともなく、すがたを消してしまったのである。  一方こちらは千晶と弓雄のふたりである。  ググンと気球が大きく動揺《どうよう》したとたん、ふたりはまりのようにモンドリうって、かごのなかに投げ出されたが、しばらくして起きなおったのは弓雄だ。 「あっ、大へんだ。軽気球の綱が切れた」 「えっ、綱が切れたのですって?」  千晶はまっさおになった。外を見ると、森や町や川のながれが、右に左にはげしく動揺しながら、しだいに眼下《がんか》に消えていく。 「まあ、弓雄さん、どうしましょう!」  千晶は思わず弓雄の胸にすがりつく。 「しっかりしてください。千晶さん、さわいだら、かえって危険《きけん》ですよ」  軽気球はしだいに西南のほうへと流れていく。やがて家も森も川も見えなくなって、あたりはただ一面の空漠《くうばく》たる青空。千晶はあまりの心ぼそさに、思わず身ぶるいしながら、 「弓雄さん、弓雄さん、あたしたちはいったいどうなるのでしょうね」 「さあ、こうなれば運を天にまかせるよりほかにしようがありません」 「それじゃ、助かる見こみはないのね」 「いや、まだそうあきらめてしまうのは早いでしょう。そのうちに気球のガスがぬけていって、どこかへおりていくでしょう。さいわい北東風だから、海のほうへ流される心配はない。それだけはだいじょうぶです」  口では元気らしくいうものの、弓雄とて内心そのこころぼそさといったらない。  千晶は泣かなかった。すっかり覚悟《かくご》をさだめたふたりは、手をにぎり合ったまま、石のように動こうともしない。やがて半時間たった。そしてまた、一時間たった。しかし、この一時間はふたりにとっては、まるで十年もたったような気がするのだった。 「おや?」  弓雄が、ふいにむっくりと首をあげると、 「あの音は——?」 「あっ、あれはガスがもれていく音ではないでしょうか」 「あっ、そうだ」  やにわに立ちあがって、弓雄は下をのぞくと、 「ああ、見える、見える。森や畑が見えますよ。しかもだんだん近くなってくる。しめた。千晶さん、軽気球は下降《かこう》しているのだ!」 「まあ、うれしい!」  千晶は手をたたいてよろこんだが、しかしふたりがよろこぶのは、まだ早かったのだ。ガスのぬけていくいきおいは、ふたりが考えたよりはるかに猛烈《もうれつ》だった。軽気球はまるで礫《つぶて》のように、グングンと下降していく。人家のないいなかの森や畑が、もりあがるようにふたりのほうへせまってくる。そのおそろしさ! 「あっ!」  ふいにふたりは、だきあったまま転倒《てんとう》した。さびしい武蔵野《むさしの》の空高くそびえている森のこずえに、軽気球からさがっている綱《ロープ》がからまったのだ。ググン、ググンと軽気球は怒《おこ》ったように二、三度、左右に大きく動揺《どうよう》したが、やがてすさまじい音をたてて爆発《ばくはつ》したかと思うと、まっさかさまに落下していったのである。  それからいったいどのくらいたったか——ここは神奈川《かながわ》県のさみしい片《かた》田舎《いなか》。この田舎道を、いましもまっしぐらに走ってきた一台の自動車が、鬱蒼《うつそう》と茂《しげ》っている森のそばにさしかかった時、なかにのっていた男が、ふとみょうなものを見つけた。 「おい、熊公《くまこう》、ありゃなんだね。へんなものが木の上に、ブラさがっているじゃないか」 「おやおや」  と、ハンドルをにぎっていた熊公という男もすぐ気がついたらしく、 「親方、あれは軽気球らしいですぜ」 「ふうむ、軽気球がどうして、こんなところにブラさがっているのかな。とにかく、そばへいってよく見よう」  やがて自動車は、めざす木の下までやってきてとまった。見ると、こずえのてっぺんに、ふろしきをかぶせたように、ペシャンコになった気球がかかっていて、そこからブラリとさがったかごが、地面とすれすれのところに、ユラユラとゆらめいているのだ。  自動車からおりたったところを見ると、ふたりとも、なんとなく、うさんくさいような人相《にんそう》をしている。  親方といわれたほうが、しばらく千晶のようすを見ていたが、やがて、ギロリと眼《め》をひからせると、 「おい、熊公《くまこう》見な。こいつはだいぶ金持の娘《むすめ》らしいぜ」 「そうらしいですね。親方、それじゃこいつをネタに、ひと芝居《しばい》書きますかね」 「よかろう、女の子を自動車に乗っけてつれていけ」 「おっとがってんだ」  熊公がかるがると千晶のからだをはこびこむと、自動車はやがて砂《すな》ぼこりを立てて、いずこともなく走っていく。ああ、奇怪《きかい》なるこの自動車、いったいこの男たちは何ものであろう。    黒手組 「おばさん、もうしわけありません。僕《ぼく》がそばについていながら、こんなことになって」 「いいえ、これも災難《さいなん》です。神さまのおぼしめしです。弓雄《ゆみお》さんにはなにの罪《つみ》もありませんのよ」  千晶《ちあき》の母は、病気と心労のため気も狂《くる》わんばかりであったが、それでも健気《けなげ》に、弓雄をなぐさめるようにそういった。あのおそろしいできごとがあってから二日後のこと。  弓雄はあの日、通りがかりの村びとに救われたが、その時には、すでに千晶のすがたはどこにも見あたらなかった。しんせつな村びとは、弓雄の話をきくと、総出《そうで》でそのへんをさがしてくれたが、千晶のすがたは、ついに発見することができなかった。やむなく、村びとに送られた弓雄が、しょんぼりとして千晶の家へ帰ってくると、それと前後して、世にもおそろしい手紙が、千晶の母のもとにとどけられたのである。   ——お母《かあ》さま、わたくしはいま、黒手組《くろてぐみ》の人たちにとらえられています。あの人たちはわたくしをかえしてやるかわりに、一千万円出せと申しております。お母さま、お願いです。明晩《みようばん》八時、だれかに一千万円もたせて、新宿《しんじゆく》駅までわたくしをむかえに来てください。もしまちがったり、警察《けいさつ》へとどけたりすると、わたくしをころしてしまうと申しています。お母さま、わたくしをたすけてください。 [#地付き]千 晶      ああ、何ということだ。一難《いちなん》のがれてまた一難。千晶は、世にもおそるべき黒手組の|とりこ《ヽヽヽ》になってしまったのだ。  そのころ、東京は黒手組のうわさにおそれおののいていた。黒手組とは、良家の子女を誘拐《ゆうかい》しては、身代金《みのしろきん》を要求する悪漢団《あつかんだん》。もし要求をきかなかったり、警察へとどけたりすると、ようしゃなく人質《ひとじち》をころしてしまうという、兇悪《きようあく》無残な殺人団《さつじんだん》なのだ。  千晶の母はこの手紙を読むと、気も狂わんばかりになげいたが、たとえ一千万円が二千万円であろうと、かわいい娘《むすめ》にはかえられない。  めいれいされるままに、叔父《おじ》の剛三《ごうぞう》に一千万円持たせ、約束の時間に新宿駅へむかえにやったのだが、剛三はどういうわけか手ぶらでかえってきた。あのような手紙をよこしながら、黒手組のものは、やくそくの場所へやってこなかったというのである。さればこそ母のなげき、弓雄の心配、それはもう筆にもことばにもつくせないくらいであった。  それにしても千晶はいったいどうしたのだろう。ひょっとすると、もう黒手組のためにころされてしまったのではなかろうか。  いやいや、千晶はまだ死んではいなかった。死んではいなかったけれども、千晶は死ぬよりも、もっとおそろしい目にあっていたのである。  あの軽気球が落下したところから、一キロほどはなれたところに、無気味《ぶきみ》な洋館がある。もとここには、アメリカ人の宣教師《せんきようし》が住んでいたのだが、その人たちが本国へ帰ってから、まるでゆうれい屋敷《やしき》のように荒《あ》れはてていた。その洋館のなかにいつのころよりか、フクロウのような婆《ばあ》さんと、十二、三の顔色が青く、足の悪い少女が住んでいた。  この洋館の奥《おく》ふかく、まっくらな地下のあなぐらに、千晶はただひとりとらわれの身となっているのだ。そのあなぐらのなかには、千晶のほかに無数のネズミがいた。そして、夜となく昼となく、千晶の肩《かた》から、頭から、胸《むね》から、腰《こし》から、ネズミどもがかけずりまわる、そのおそろしさ。おまけにご飯がさしいれられると、わっとばかりにむらがりよってくる、その気味わるさ。 「ああ、お母さま、お母さま」  千晶は、もう涙《なみだ》も声もかれはてて、ときどきうわごとのようによぶのは母のなまえ。こうして千晶は、夜も昼もない暗いあなぐらのなかで、恐怖《きようふ》と苦痛《くつう》のために、半死半生《はんしはんしよう》の状態《じようたい》だった。    壁《かべ》信号  コツコツコツ、コツコツコツ。  千晶《ちあき》はハッと暗がりのなかへおきなおった。どこかで壁をたたくような音。コツコツコツ、コツコツコツ、あたりをはばかるような、しのびやかなその物音。コツコツコツ、コツコツコツ。  壁信号。——千晶はふと、土牢《つちろう》にとじこめられた囚人《しゆうじん》どもが、たがいに壁をたたきあって信号するという、外国の小説を思い出した。  コツコツコツ——壁をたたく音は、あいかわらずきこえてくる。千晶はふいに眼《め》をかがやかすと、コツコツコツ——とこちらからもたたいてみる。  と、——ふいに、壁をたたく音はバッタリとやんだが、しばらくすると、前よりいっそうせわしいたたきかたで、コツコツコツ。——  それに力をえた千晶が、ひっしになって、コツコツと壁をたたいていると、ふいに、 「お嬢《じよう》さま、お嬢さま」  と、かすかな声がきこえてきた。弱々しい少女の声なのだ。 「だれ? 呼《よ》んでいるの、あたしのこと?」 「そうですよ、お嬢《じよう》さま」  と、そのふしぎな声はあたりをはばかるように、 「お嬢さまのおなまえは?」  千晶は思わずハッとして、 「あたしの名? あたしは御子柴《みこしば》千晶」  そうささやいたせつな、壁《かべ》のむこうから、あっとおどろく声がきこえてきた。 「どうなすって? あなたはいったいだれ?」 「お嬢さま」  しばらくして、またふしぎな声がきこえてきた。 「いまあなたに、お目にかけるものがあります。ちょっとまって——」  そういったかと思うと、まもなく天井《てんじよう》にポカリとあながあいて、さっと入ってきた光線とともに、一本のなわがゆるゆるとさがってきた。見るとそのなわのさきに、なにやら白いものがブラブラとおどっている。あわててそれを手にとった千晶は、ふいに、はっと顔色をかえた。それはかわいいフランス人形だったのだ。 「あっ、ルミー」 「お嬢さま」  天井の声は、ふいに涙《なみだ》にうるんで、 「あたしは半年ほど前のある晩、お嬢さまの家にしのびこんだ男の妹です。お嬢さまのおかげで命がたすかりました。あたしの名は真弓《まゆみ》というのよ」 「まあ! そして、そしてお兄さまは?」 「兄は死にました。ふとしたかぜで死にましたが、死ぬまぎわまで、あなたのことを申しつづけていましたわ。しんせつなお嬢さん、天使のようなお嬢さん——と」  真弓は声をのんで泣きだした。ああ、なんというふしぎなめぐりあいだろう。千晶がぼうぜんとして立ちすくんでいると、真弓はよくやく涙をおさめ、 「あたし、一度お嬢さまにお眼《め》にかかって、よくお礼を申しあげようと思っていたのですが、兄の死後、ずいぶんつらい目にあって……悪ものにかどわかされて、こんなところで、悪もののてつだいをさせられているのですわ」 「真弓さん」 「お嬢さま、しっかりしていらっしゃい。いまにあたしがおすくいしますわ。あっ、だれかきた。しっ、しずかにして」  天井のあなが、そっともと通りにしめられた。と、そのとたん、コツコツと冷たい床《ゆか》をふむ音がきこえたかと思うと、入口のドアが開いて、ヌーッと顔を出したのは、ゾッとするようなあのフクロウ婆《ばばあ》。 「おまえ、だれかと話をしていたのじゃないかね。いま、|しっ《ヽヽ》、という声がきこえたようだが」 「あれは、あたしがネズミをおっていたのよ」 「ふふふふ、そうかい。どうじゃ、ネズミがたくさんいて、にぎやかでいいじゃろう、ふふふふ」  バターンとドアがしまった。それから、コツコツという足音は、しだいに遠くなっていく。 「お嬢《じよう》さま、さ、いまのうちよ。早くはやく」  フクロウ婆の足音が遠のくと同時に、またもや天井《てんじよう》の口がポッカリとひらいて、そこからパラリとおちてきたのは繩《なわ》ばしご。千晶は必死となって、その繩ばしごをのぼった。 「ありがとう、真弓さん。あたし、このご恩《おん》を一生|忘《わす》れませんわ」  そういいながら、真弓の手をとろうとして、千晶は思わずはっとした。ああ、なんという気の毒な少女だろう。栄養の悪いあおい顔、眼《め》ばかりギロギロとひかっていて、しかもところどころ、いたいたしいみみずばれのきず。おまけに真弓は松葉杖《まつばづえ》をついているのだ。 「さあ、お嬢さま、ぐずぐずしていちゃいけませんわ。あたしの後からついていらっしゃい」  真弓はくるりとうしろをふりむくと、ピョンピョンと松葉杖をつきながら、とぶように歩いて行く。千晶はだまってそのあとからついて行く。  長いながい、まがりくねったうすぐらいろうか。  しばらくふたりは、息をこらして、しのび足にそのろうかを歩いていったが、とあるまがり角まできたとき、ふいにふたりは、ドキリとしたようにたちどまった。 「しっ、だれかきた。だまって!」  ふたりはペタリとコウモリのように、うす暗い壁《かべ》にへばりつく。足音はしだいしだいにこちらへ近づいてくる。と、この時、ふいにむこうのドアがパッと開いたかと思うと、バラバラとおどり出したのは、御子柴剛三《みこしばごうぞう》をはじめとして、兇悪無残《きようあくむざん》な黒手組の悪ものたち。 「やあ、あの娘《むすめ》、千晶のやつを救いだしたぞ」 「いけない! お嬢さん、こちらへ!」  真弓はさっと身をひるがえすと、そばにあった階段《かいだん》をいちもくさんにのぼっていく。 「ちくしょう、うぬ、待て! 待たぬか!」  口々にわめきながら、追っかけてくる悪党《あくとう》どものおそろしさ。階段をのぼると二階のろうか。そのろうかのはしに、せまいドアがあったが、そのなかにとびこむと、真弓はすばやく、中からピンと錠《じよう》をおろした。 「さあ、こちらへいらっしゃい」  見るとそこにはさらにせまい階段がついている。その階段をのぼりきると、高い鐘楼《しようろう》になっていた。窓《まど》から流れこんだ月光が、古びた|つり鐘《ヽヽがね》をななめにてらしていた。おりから下のほうでは、ドンドンとドアを乱打《らんだ》する音。 「まあ、いったいどうしたの。おじさまがああして救いにきてくだすったのに」  真弓は千晶のことばに耳もかさず、手早く窓《まど》から繩《なわ》ばしごをおろしながら、 「あなたはなにもごぞんじないのです。あなたのおじさまは、世にもおそろしい悪人です。あの人が、今夜きたのは、あなたを救うためではなくて、あなたを殺すためですよ」 「えッ、なんですって?」 「あたし、フクロウ婆《ばあ》さんからなにもかも聞きました。あの軽気球の綱《ロープ》を切ったのも、みんなあの人のしわざなんですよ」 「まあ!」 「おじさんはあなたを殺して、財産《ざいさん》を横領《おうりよう》しようとしているのよ。ところが|あて《ヽヽ》がはずれて、あなたはあの災難《さいなん》からのがれることができたけれど、こんどはまた黒手組につかまった。黒手組はあなたの身分がわかると、一千万円出せと脅迫状《きようはくじよう》を送ったでしょう。なにもごぞんじないあなたのお母さまは、その一千万円をおじさんにことづけたのです。ところがおじさんは、黒手組の使いのものにあうと、あなたを返してもらうより、いっそ、人知れず殺してくれたら、二千万円出そうと申し出たのだそうです。そして今夜、あなたの殺されるのを、自分の眼《め》で見とどけようとしてああしてやってきたのですよ」  聞けば聞くほど、おそろしいおじのたくらみ。千晶はもう生きた心地とてもなかった。 「まあ、あたしどうしましょう。どうしましょう」 「なにも心配なさることはありません。さあ、繩ばしごがかかりましたわ。あなたはこれをつたっておりてくださいな。あとはあたしに考えがあります」  千晶は窓からのぞいてみて、思わずブルルと身ぶるいをする、ああ、どうしてここからおりられよう。そこは地上から数十メートルもあるのだ。 「さあ、早く! あっ、ドアがやぶれました」  千晶は、押《お》し出されるようにその窓からはい出して行く。と、その時、メリメリと音がして、ドッと階段《かいだん》の下になだれこんできた悪党《あくとう》のむれ。  真弓はそれと見るや、 「お嬢《じよう》さま」  と呼《よ》んでみた。 「真弓さーん」  はるか下のほうから千晶の声が聞えてきた。 「あたしは、ここで悪ものたちを、どこまでもふせいでやります。お嬢さま、おたっしゃで」 「真弓さん、真弓さーん」 「さようなら、お嬢さま。あたしは……あたしは兄のところへまいります。そしてご恩《おん》返しをしたことを、兄にはなしにまいります。さようなら、お嬢さん」  真弓は声をかぎりにさけんでいた。  だが神は真弓のま心をお見すてにはならなかった。千晶の急報《きゆうほう》によって、たちまち鐘楼《しようろう》をとりかこんだ警官《けいかん》たちによって、悪ものどもは一網打尽《いちもうだじん》に捕縛《ほばく》されてしまった。その時、真弓ははりつめていた気がゆるんだのか、がっくりとうちふしていたが、その顔には、自分のいのちがけのつとめをはたすことのできた、幸福なほほえみがうかんでいたという。 [#改ページ] [#見出し] バラの呪《のろ》い    あやしい人声  部屋《へや》へかえってきたとき、鏡子《きようこ》はすっかりくたびれていた。テニスの猛《もう》れんしゅうでながした汗《あせ》を、ろくろくあらわないうちに、舎監《しやかん》先生によばれたりしたものだから、ねばりっこい汗が、まだどこかにのこっているようで、気持がわるかった。 「どなたかお風呂《ふろ》へいらっしゃらない? あたしさっきいちど入ったんだけど、なんだかまだ気持が悪くて……」  部屋へはいってくると、鏡子は、いきなり同室のだれかれにそう声をかけた。 「ええ、でもあたしたち、いま入ってきたばかりのところなのよ。それより鏡子さん、先生からなにかお話があって?」  三年の早苗《さなえ》という少女が、机《つくえ》の前からふりむいてそうたずねた。 「いいえ、べつに……。そう心配するほどのことはないのよ。じゃあたし、ちょっといってくるわ」  鏡子は、手ぬぐいと石鹸《せつけん》をとりだすと、うすぐらい廊下《ろうか》へでた。まだ五時にもならないのに、十一月の陽足《ひあし》はみじかかった。  寄宿舎《きしゆくしや》の廊下は、はやネズミ色にけむって、ところどころに、いまついたばかりの電燈《でんとう》が、ぎぼしのようにぼんやり光っている。 「榊《さかき》さん、どちらへ?」 「ちょっとお湯へはいってこようと思うの」 「あら、だめよ。もうすっかりつめたくなっているわ。お風邪《かぜ》をめしちゃいけませんよ」  ごはんまえの寄宿舎はにぎやかだ。  榊鏡子が通るのを見つけると、どの部屋からも、快活《かいかつ》な少女の声がかかった。 「ええ、ありがとう。だいじょうぶよ」  鏡子は、もちまえのうつくしい頬《ほお》に、こぼれるような愛きょうを見せながら、そのひとりひとりにあいさつをして通った。  この学校に、だれがつくったのか、こんな歌がある。     S学校の誇《ほこ》りといえば   妙子《たえこ》の君に鏡子さま   いずれおとらぬバラとユリ    しかし、バラにたとえられた、妙子という少女は、今年の春に亡くなった。以来S学校の誇りといえば、榊《さかき》鏡子ひとりになったわけである。  鏡子は、もう三年になった。  彼女《かのじよ》のうつくしさは、少女の美そのものであるかのように輝《かがや》いていた。  いつもうるおいがちな黒曜石《こくようせき》のような瞳《ひとみ》、長いふさふさとしたまつ毛、たえぬ微笑《びしよう》を、つつましやかにかくしている赤い唇《くちびる》、それらは、全校の少女のあこがれの的《まと》となっていた。しかし、鏡子の均整《きんせい》のとれたからだに、いちどラケットがにぎられたとき、この近県の学校じゅうでそれにたちむかえるものは、ひとりもなかった。 「鏡子さんとおなじ室に、起きふしできたら……」  それは嫉妬《しつと》と反感のうずまいている少女間での、ただひとつの正直な願いごとだった。  お風呂は、なるほどなかば冷えていた。  でも、運動につかれた鏡子には、それがなによりのごちそうにおもえた。  かるく汗《あせ》をながして、みだれた髪《かみ》をときあげると、鏡子はぬれた手ぬぐいをもって、風呂場をでた。  おそかったので、そのへんには、ひとりもすがたが見えなかった。たぶん食事がはじまったのだろう。さっきまでのにぎやかさはどこへやら、水底《みなそこ》のような沈黙《ちんもく》が、大きな建物いっぱいにひろがっている。  日はもうすっかり暮《く》れてしまった。濃《こ》いむらさき色の暗闇《くらやみ》が、鏡子の前後左右から、おしよせてくる。  こういう大きな建物の、こういう瞬間《しゆんかん》は、いちばんもの淋《さび》しいものだ。  せまい階段《かいだん》をあがるとき、鏡子はふと、さっきの舎監《しやかん》先生のことばを思いだして、おもわず、しなやかな肩《かた》をすぼめた。 「榊さん」  と、先生は鏡子ひとりを前にして言った。 「このごろ、この寄宿舎《きしゆくしや》で、ときどきへんなうわさをきくのですがね」 「へんなうわさって?」  鏡子は、きよらかな瞳《ひとみ》をあげて、先生の顔を見つめた。  寄宿舎の不しまつは、舎監先生の責任《せきにん》であると同時に、鏡子の責任でもあった。鏡子はまた、いたずらな下級生たちの不しまつが、先生の耳に入ったのではないかと思って、早くも、そのやさしい心をいためた。 「なにも、そんなに心配するほどのことでもないのです。むしろ、ばかばかしいような話で……」  先生も、さすがにいいにくいと見えて、ちょっとことばをにごしたあと、 「たぶん、臆病《おくびよう》な生徒たちの思いちがいだろうと思いますが、この寄宿舎に、幽霊《ゆうれい》が出るというのです」 「まあ」  鏡子は、あまり思いがけないことばに、おもわず目を見はったが、すぐそのつぎの瞬間《しゆんかん》には、あまりのおかしさに、おもわず微笑《びしよう》をもらした。  すると先生も、それにつりこまれて笑いながら、 「もちろん、枯尾花《かれおばな》を見て、幽霊《ゆうれい》と早合点《はやがてん》のたぐいにちがいありませんが、なにしろ、臆病《おくびよう》な人たちのあつまりですから、あなたも、せいぜい気をつけて、そんなうわさがあったら、できるだけ打消してください」  舎監《しやかん》先生の話というのは、ただ、それだけのことであった。  鏡子は、いま、ふとその話を思いだすと同時に、なにかしら、つめたいものを襟《えり》あしから投げこまれたように、おもわず前をかきあわせた。  さっきはむしろ笑いだしたくらい、こっけいに思えた話が、いまではひしひしと身内にせまってきて、しぜんに足が早くなってくる。 「ばかな! さっき先生の前では、あんなにりっぱな口をききながら、自分から臆病風に吹《ふ》かれるなんて、あたしもずいぶんおばかさんね」  鏡子は、自分をたしなめるように、心のなかでそうつぶやいた。しかし、いかに気丈《きじよう》とはいえまだ十五の少女にとっては、おそろしいうわさは、やはりおそろしく、気味の悪いものは、やはり気味が悪かった。  そのときである。  鏡子は、突然《とつぜん》立ちどまった。鏡子の足はきゅうにナマリの棒《ぼう》のように重くなった。  ゴクッと内へひいた息をはきだすまでもなく、心臓《しんぞう》がふうせんのようにふくれあがって、息苦しくのどへひっかかった。 「どなた……?」  鏡子は、精《せい》いっぱいの力をふりしぼって、何者ともわからぬ、目に見えぬ相手にそう声をかけた。  答えはない。水アメのように、とろりとよどんだ暗闇《くらやみ》が、あたりいっぱいにはびこっているばかり……。 「どなた……」  鏡子は、もういちどそう声をかけておいて、さっき、人の声がしたと思われる、右手のほうの部屋《へや》へ、そっとちかよっていった。あいかわらず答えはない。  ふと気がつくと、その部屋というのは、あの事件《じけん》以来とざされて、いまでは、だれもはいるもののない、無人であるべきはずの部屋であった。  そう気がつくと、鏡子はもういちど、ゴクンと唾《つば》をのみこんだ。  あの事件……そうだ、あの悲惨《ひさん》なできごと……。鏡子は、今まざまざとそれを思いだした。  と、そのとたん、ふたたびあやしい人声が、かすかに鏡子の耳たぶをうった。 「バラが……ああ、赤いバラが……おそろしい! おそろしい! そのバラの花が……」  それは瀕死《ひんし》の人の声であった。あやしくみだれ、ふるえ、きれぎれに、黄泉《よみ》の国からわきおこる声のように、恨《うら》みっぽく、なげかわしくつづいた。 「バラ……バラの花……あたしの命をとる、おそろしいバラの花……」  それにつづいて、すすり泣くような声がしばらくつづいた。 「ああ、妙子さんの声だ!」  そう気がつくと、鏡子は、ふしぎにも今までの恐怖《きようふ》は、すっかりうち忘《わす》れてしまった。  彼女《かのじよ》はわれにもあらず、ドアのハンドルに手をかけた。とざされてあるべきはずのドアは、ふしぎにも、なんの手ごたえもなくあいた。  しかし、部屋《へや》のなかには、鏡子の期待に反して、何者のすがたも見えなかった。  開放された窓《まど》から、いつのまに出たのか、黄色い月がさしこんでいるばかりである。  鏡子は勇を鼓《こ》して、その窓のそばへよって外をのぞいた。そこにもしかし、コスモスの花が露《つゆ》にぬれて、さやさやとゆらめいているばかりであった。    花束の謎《なぞ》  鏡子《きようこ》はしかし、そのことを、だれにも話さなかった。同室の生徒はもとより、舎監《しやかん》先生にすらそのことをうちあけようとはしなかった。  亡《な》くなった妙子《たえこ》——それは鏡子とともに、S学校の誇《ほこ》りとまでうたわれたうつくしい人で、しかも鏡子にとっては、この世にふたりとない、したしい友だちでもあった。  思えば今年の春、ちょうどさくらの花びらが、校庭にふりしきるころ、あの寄宿舎《きしゆくしや》の一室で、妙子は狂《くる》おしい死を遂《と》げた。病気とはいえ、それは世にもみじめな最期《さいご》であった。  鏡子にもおとらぬうつくしいあでやかなその容貌《ようぼう》が、たった一夜のうちにみにくく崩《くず》れ、これまでの面影《おもかげ》はどこへやら、高熱のうちに狂おしくうわ言《ごと》をつづけながら、醜怪《しゆうかい》な亡骸《なきがら》を、そこにさらしたのであった。 「丹毒《たんどく》」という医師《いし》の診断《しんだん》に、学校では伝染《でんせん》をおそれて、だれも妙子にちかづくことをゆるさなかった。ただひとり鏡子だけが、その禁《きん》をおかして、さいごまで、妙子のそばをはなれなかった。 「バラが……ああ、おそろしいバラが……」  なぜか妙子は、生前あれほど愛していたバラの花を、おそれ、呪《のろ》いつづけながら最期の息をひきとったのであった。 〈妙子さんの思いが、まだのこっているのだわ。おかわいそうに、でも、むりはないわ。あんなうつくしい人が、あんなにみじめな死にかたをなすったんですもの〉 「鏡子さん、どうかなさったのじゃないの。なんだか、顔の色がすぐれないようよ」 「そう、ありがとう。べつになんでもないんだけど」 「お風邪《かぜ》でもめしたのじゃない? きょうは、テニスの練習はおよしになったほうがよくない」  おなじクラスの人たちに、そんな注意をうけた鏡子は、正直にそれをうけいれて、その翌日《よくじつ》はいつもより早く、部屋《へや》へかえってきた。  部屋には、この秋から転校してきた、一年の鈴代《すずよ》という少女をのぞいたほかは、だれもいなかった。  鈴代は、所在なげに、編物針《あみものばり》をうごかしていたが、鏡子の顔を見るとびっくりした。 「まあ、鏡子さん、顔の色がまっさおだわ。どうかなさったの?」 「いいえ、たいしたことはないのよ。ちょっと風邪《かぜ》でもひいたのだろうと思うわ」 「いけませんわねえ。まるで幽霊《ゆうれい》にでもつかれた人のようよ」  鈴代のなにげないことばに、鏡子は、ギクリとしたように、相手の顔を見た。しかし、鈴代はそんなことには気がつかぬらしく、むこうをむいて編物をかたづけていた。 「お床《とこ》をとりましょうか。横になっていらしったほうがよくはありません?」 「ありがとう。でも、そんなにしなくってもだいじょうぶよ」 「そう……じゃ……」  鈴代はまた、編物を手にとろうとしたが、ふと思いだしたように、 「そうそう、鏡子さん、あなたのところへ小包みがまいっていますよ」 「小包み?」 「ええ」  鈴代は、立って押入《おしい》れのなかから、ボール紙の箱をとりだしてわたした。見ると、おもてには「榊《さかき》鏡子さま」とだけ書いてあるだけで、差出人の名まえはどこにもなかった。 「おや、どなたからかしら?」  鏡子は不審《ふしん》そうに、十文字にからげたひもを切って、ふたをあけた。 「まあ、きれいなバラだこと……」  鏡子といっしょに、なかをのぞいていた鈴代が、おもわずそう声をあげた。  それは、いかにもみごとなバラの花束であった。  あでやかな花びらの下からにおう高い香気《こうき》が、いっせいにふたりの鼻をうった。 「へんだわ。どなたが送ってくださったのかしら」  鏡子は不審そうに首をかしげた。自分にバラを贈《おく》ってくれそうな人は、どう考えても、思いあたるところがなかった。  そのうち、花束のなかから一枚の名刺《めいし》のようなものが、パラリと畳《たたみ》の上におちた。鏡子はなにげなくそれを手にとったが、その瞬間《しゆんかん》、鏡子の頬《ほお》の色がさっとかわった。  それは名刺ではなかった。  そこにはこんなことが書いてある。 「復讐《ふくしゆう》は汝《なんじ》のうえにあるべし……」  鏡子はあわてて、それを手でおさえながら、鈴代のほうを見たが、一瞬間《いつしゆんかん》、鈴代の目が、夏の稲妻《いなずま》のようにするどく走ったのを見た。    寄宿舎《きしゆくしや》にでるという、幽霊《ゆうれい》のうわさは、打消せばうちけすほど、だんだんひろがってきた。鏡子も思いきって、それを否定《ひてい》することができなかった。  このあいだの晩《ばん》、浴室からのかえりがけ、鏡子自身耳にした、あのおそろしいつぶやきは、いまだに鏡子の耳のそこに、こびりついていてはなれない。  そんなばかなことが……と否定するそこから、いやいやとうたがう心がわきおこってくる。  だれかのいたずらだろうと思ってみても、さて、だれが、なんのために……と考えてくると、いまどき、そんなばかげたいたずらをするものがあろうとは思えない。それに、あのとききいた声は、たしかに亡《な》くなった妙子の声と、そっくりだったではないか。 「ええ、あたしもきいたわ。妙子さんの声と、そっくりだったわ」 「バラが……バラが……という声でしょう」 「いやよ。そんなまねしちゃ、気味が悪い」  そんなうわさが、全校にひろがってゆくころ、しかし、一方では、それとは関係なしに、この学校の年中行事のひとつである、秋期テニス大会がちかづきつつあった。  鏡子は長いあいだ、ダブルスの選手として、名誉《めいよ》ある第一位をしめていたが、この春、もっともよきパートナーである妙子をうしなったので、こんどはいやが応《おう》でも、シングルにでなければならなかった。  もっとも、鏡子の正確《せいかく》なストロークと、もうれつなサーブをもってすれば、シングルでも、勝つ自信はあったが、それにしても、思いだされるのは、妙子のことであった。  もういちど、ふたりしてコートに立ってみたい……それは、いってもむりなこととわかっていながらも、大会の日がちかづいてくるにしたがって、ともすれば鏡子には、亡き友の面影《おもかげ》が、しみじみと思いだされるのだった。 「榊《さかき》さん、ちょっと」  鏡子が、ラケットをふるって猛練習《もうれんしゆう》に余念《よねん》のないときであった。むこうのほうからひとりの生徒が声をかけた。 「なあに」  鏡子は、おりから飛んできた球《たま》を、かるく打ちかえしておいて、そのほうへふりむいた。 「舎監《しやかん》先生がおよびよ。すぐいらしてくださいって……」 「あ、そう、ありがとう」  鏡子は、ラケットをおくと、みんなにちょっとあいさつをして、舎監部屋のほうへ、いそぎ足でかけていった。 「先生、なにかご用ですか」  ドアをひらくと、そこには先生がひとりで、なにか思案顔に、ぼんやりとしていたが、鏡子がそう声をかけると、ふとこちらをむいて、 「あ、いらっしゃい。あとをよくしめといてくださいな。あまり人にきかれたくないお話ですから……」  そういう先生のようすや、ことばつきから、鏡子はまた、何かよくないことが、おこったのにちがいないと思って、だまって先生の顔を見あげたまま、つぎのことばをまっていた。 「榊さん、あなたのところへだれからか、バラの花束をおくってきやしませんでしたか?」 「え?」  鏡子は、ドキッとして、先生の顔を見あげた。 「おくってきたでしょう。じつはそのことについて、お話があるのですがね」  そこで先生はことばを切ると、机《つくえ》のひきだしから、一|枚《まい》の紙きれをとりだして、だまって、それを鏡子にわたした。  鏡子はなにげなくそれをうけとって見たが、あやうく叫《さけ》びだすところであった。  そこには、鏡子にも見おぼえのあるおなじ筆蹟《ひつせき》で、 「復讐《ふくしゆう》は汝《なんじ》のうえにあるべし」  とただ一言。  その文句までもおなじである。 「先生、これは……」  と、鏡子がなにかいおうとするのを、先生はとちゅうでさえぎって、 「じつはね、あなたのほかにも、おなじようなバラの花束をおくられた人が、二、三人あるのです。こういうあたしも、そのひとりなんですよ」 「まあ、先生!」  鏡子はおどろいて、先生の顔を見なおした。 「復讐は汝のうえにあるべし……榊さん、あなたこのことばについて、なにか思いあたることはありませんか」 「いいえ、ちょっとも。あたしもわけがわからないので、おどろいてしまいましたわ」 「そうですか。ところでけさほどね、あたしはまた、こんな手紙をうけとったのですがね」  そういって先生は、さらに一通の手紙をとりだした。  見ると、そこにはこんなことが書いてある。   いよいよ秋のテニス大会も近づきました。あなたは、この春のテニス大会のあとにおこった、あの悲惨《ひさん》なできごとをおもいだしはしないでしょうか。 復讐《ふくしゆう》はおなじテニス大会ののちに、かならずおこなわれるものとごしょうちください。   「さいしょあたしにも、なんのことだか、さっぱりわかりませんでした。しかし、さっきふと思いついたのですがね。榊さん、この事件《じけん》と、このごろおこる寄宿舎《きしゆくしや》の幽霊《ゆうれい》事件ね。これはたしかに、おなじ事件なんですよ」  そのことばに、鏡子はおもわず、水のようにつめたいものを背《せ》すじに感じた。  なにかしら、わけのわからない、あやしいものが、灰色《はいいろ》の雲となって、鏡子のまわりをとりまいているような気がする。自分の知らないまに、おそろしい悪魔《あくま》が、銀色のトゲトゲした爪《つめ》を、みがいているのではなかろうか。 「つまりね、あたしの考えるのに……」  と、先生はさらにことばをついで、 「この春のテニス大会のあとにおこった、悲惨《ひさん》なできごとといえば、とりもなおさず、あの妙子さんの死んだことでしょう。そこであなたにおたずねしなければならないのですが、あのときはあなたと、妙子さんの組が優勝《ゆうしよう》して、だれか妙子さんのところへ、バラの花束をおくった人がありましたね。あなた、そのおくり主について、ごぞんじありませんか」  鏡子は、ちょっと首をかしげて考えてみた。  なるほど、この春の大会のとき、ふたりが光栄にかがやく優勝旗を手にしたとき、だれか主のわからない花束が、妙子のもとにおくられた。そして、その夜から、あのおそろしい病気が妙子をおそったのだ。しかし、それとこれと、どんな関係があるのだろうか。  そこまで考えてきたとき、鏡子は、ハッとおもわず息をのみこんだ。  そうだ。臨終《りんじゆう》における、妙子のあの苦しいうわ言《ごと》——そしてそのなかから、ふと耳にしたことば—— 「…………」  鏡子がおもわずせきこんで何かをいおうとした刹那《せつな》、先生はふいにだまって立ちあがった。そして、鏡子になにか目であいずをすると、しずかにドアのそばへ歩みよった。  しかし、その手がハンドルにかかるまえに、それと感づいたものか、ドアの外を、バタバタとむこうへかけてゆく足音がきこえた。 「だれか立ちぎきをしていた人があります。ここできくのは危険《きけん》です。いずれのちほどうけたまわりましょう」  先生は、何かふかい思案にとらわれながら、そうつぶやいた。    秘密《ひみつ》を誓《ちか》う  寄宿舎《きしゆくしや》の幽霊《ゆうれい》——妙子《たえこ》の死——ふしぎな花束——おそろしい呪《のろ》い——  そういうふうに考えてくると、その夜、鏡子は、まんじりともすることができなかった。  鏡子の耳には、さっき、舎監《しやかん》先生の言ったことばが、しつこくこびりついていて、はなれない。  妙子さんにバラをおくった人……ああ、それはなんという、おそろしいことであろうか。鏡子は、ふと妙子の臨終《りんじゆう》のうわ言《ごと》のなかに、その人の名をきいたのだ。  しかし、どうしてそれが人にいえようか。あのときはなにげなくきいていたことばだけれど、いまになってみれば、はっきりとわかってくる。妙子さんが、あんなにバラを呪《のろ》いつづけて、亡《な》くなった理由も、ようやくわかってきた。  しかし、しかし、どうしてそれが人にもらされよう。あのバラの花束に、なにかしかけがしてあって、それがついに妙子さんの命をうばったのであったとしても、そのおくり主の名を、どうして人の前でいうことができるだろうか。それはむしろ、妙子さんがゆるさないだろう。妙子さん自身それをだれにも知られずに、墓場《はかば》のなかまでもってゆきたかっただろう。 「妙子さん、かわいそうな妙子さん。あたしは今まで、ちょっとも知りませんでした。しかし、あなたなればこそ、だれにもいわずに、甘《あま》んじて死んでいかれたのです。その人を恨《うら》んではだめよ。あたしもきっときっと、生涯《しようがい》その人の名を、口にしないことを誓《ちか》います」  鏡子のくくり枕《まくら》のレースのふちは、あわれな妙子のために、じとじとにぬれてきた。  夜はもうすっかりふけわたって、広い宿舎のなかは、水底《みなそこ》のように、つめたくしずかである。  だれかしめわすれたものか、たったひとつあいている窓《まど》からは、ブドウ色の外気がさやさやとながれこんで、空気が氷のようにひかってつめたい。  同室生五人、鏡子のほかの生徒たちは、みんな昼のつかれからか、スヤスヤと健康な眠《ねむ》りにおちいっている。だれかが寝《ね》がえりをうった。そしてむちゅうで夜着の襟《えり》をかきあわせている。  寒いのだ。窓をしめなければ……。  鏡子は立ちあがって窓のそばによった。  そのとき、鏡子はふと、ひとつの寝床《ねどこ》がからになっているのに気がついたのである。  紫紺色《しこんいろ》の地に、黄みどりで、ナシの葉をちらした掛《かけ》ぶとん、からになっている寝床の主は、たしかにこのあいだ転校してきた、一年の鈴代《すずよ》にちがいない。 「おや?」  というように、鏡子はあたりを見まわした。  いつのまに出ていったのかしら。たしかに、部屋《へや》のなかにはすがたがみえない。お便所かしら。そう思ってしばらく鏡子はまっていたが、なかなかかえってくるようすは見えぬ。  鏡子はふと、あやしい胸《むな》さわぎをおぼえてきた。  廊下《ろうか》のほうのドアをおすと、苦もなく、スーッとあく。  外をのぞくと、金柑色《きんかんいろ》のほのぐらい電球が、ぽっつりと天井《てんじよう》にまたたいているばかりで、そのむこうのほうは、うば玉の闇《やみ》のなかに、とけあっている。  あいかわらず、鈴代のすがたも見えねば、足音もきこえない。  鏡子は廊下《ろうか》へでると、そっとうしろのドアを、音のしないようにしめた。  鏡子の足のむかうところは、あのおそろしい部屋《へや》、しかし、鏡子にとっては、もっともなつかしい部屋である。  一歩一歩足音をしのばせつつ、その部屋にちかづくにしたがって、鏡子の胸《むね》は、おもわず潮騒《しおさい》のようにざわめきたってきた。  すすり泣くような声。  そして、なにかかきくどくような声。  それはたしかに、妙子の部屋からであった。いまこそ、寄宿舎《きしゆくしや》の幽霊《ゆうれい》の正体を、見きわめることができるのだ。  鏡子は、わななく足をふみしめ、ふみしめ、その部屋の前までやってきた。そっとドアによりそうと、やっぱりそうだ。まぎれもなく鈴代の声にちがいない。なにか口のなかで、つぶやいてはすすり泣いているのがもれてくる。  鏡子は、おもわずつばをのみこむと、しっかりとドアのハンドルに手をかけた。と、そのとたん、こんなことばが、鏡子の耳をうった。 「ええ、ええ、あたしもっと、みごとに仕おわせて見せます。あなたのかたきは、かならず討《う》ってみせます。もうしばらく、ほんとうにもうしばらくです。……ああ、ああ、しかし、あたしにはわからない。だれがあなたのかたきなのか、あたしにはそれがまだわからないのです」  それにつづいてまたもや、くやしそうにすすり泣く声がきこえた。  それだけきけば、もうじゅうぶんである。鏡子はガチャリとハンドルをならした。  そして、そのつぎの瞬間《しゆんかん》には、幽霊のように、顔あおざめた鈴代と、たがいに目と目とを見あわせていた。 「あなた……あなたはいったい、ここでなにをしているのです」  鏡子の声はのどにからまって、おもわずみだれた。鈴代は思いがけない侵入者《しんにゆうしや》に、しばらく口もきけないほど、転倒《てんとう》しているらしかったが、相手のことばとともに、かくしきれない悩《なや》ましさを、その目のなかに見せた。 「あたし……」  と、鈴代は、口のなかでそれだけいったが、突然面《とつぜんおもて》をぐいとあげると、真正面から、鏡子の顔をみつめて、 「榊《さかき》さん、どうぞ、あたしにおしえてくださいませ。毒の花束をおくった人はだれなのです。あたしにそれだけおしえてください」  鏡子は、ハッと顔色をかえた。鏡子はおもわずヨロヨロとよろめいた。 「あなたは……あなたは……」  と、鏡子がなにかいおうとするのを、鈴代はおしかぶせるように、早口に叫《さけ》んだ。 「あたしは、妙子の妹です。あたしは、姉のかたきを討たなければならない。あたしは、さいしょあなたを疑っていました。鏡子さん、ほんとうのことをおしえてください。あなた、あなたですか!」 「ああ!」  鏡子はおもわず卒倒《そつとう》しそうになって、|こめかみ《ヽヽヽヽ》をしっかりとおさえた。 「妹ですって? 妙子さんの妹ですって?」  しばらく、じっと相手のようすを見ていた鈴代は、なにを思ったのか、突然《とつぜん》ドアのほうへかけよった。そして、そこでくるりとふりかえると、敵意《てきい》と反感のいっぱいにみなぎった目で、鏡子のほうをキッと見るとこう叫んだのである。 「わかった、わかった。やっぱりあなただった。あなたのそのおどろき、おそれ、やっぱりあなたが、姉のかたきだったのですわ」  それだけいうと、鈴代は、うしろも見ずに、廊下《ろうか》のかなたへとかけていった。  鏡子は、その後を追いかけようとして、おもわず、ヨロヨロとそこによろめいたが、そのときふと鈴代ののこしていった、ちいさな位牌《いはい》が目についた。  鏡子は、おもわずそれをだきしめた。 「妙子さん、だいじょうぶよ。あたし、けっしていわないわ。鈴代さんに、どんなにうらまれても、あたし、けっして、けっしていわないからだいじょうぶよ」  そういう鏡子の目からは、とめどもなく|涙が《なみだ》あふれた。  妙子に毒の花束をおくった人!  鏡子はそれを知っているのだ。  知っていて、しかし彼女《かのじよ》にはいえない。  ああ、ああ、わけても鈴代には、どうしてそれがいえようか。    ふしぎな訪問者《ほうもんしや》  いよいよ秋のテニス大会が、まぢかにせまってくるにつれて、鏡子《きようこ》の胸《むね》は、あやしくおびえはじめた。  なにかしら、よくないことが、自分の身のまわりにせまってくるのが、ひしひしと感じられて、このごろでは鏡子はすっかり日ごろの勇気をうしなっていた。 「榊《さかき》さん、あなたどうかなすったんじゃなくって?」  鏡子の練習ぶりが、日ごろとはちがっているのを、早くも見てとった友だちが、やさしくそうたずねてくれるのであったが、鏡子はいつも、 「いいえ、べつに……」  と、さびしく微笑《びしよう》しながら、ただかんたんに、そう答えるだけだった。  そういうとき、鏡子はどこかしらに、鈴代のゆがんだまなざしがあるように思えて、おもわずあたりを見まわしたりするのだった。  おそろしい鈴代の呪《のろ》い……。  それは鏡子にとっては、どうすることもできないのであった。友だちにも、先生にも、うちあけることのできない、かなしい事実だった。  自分にたいする鈴代の呪いの、故《ゆえ》ないことはわかっていても、さてそれを弁明《べんめい》しようとすれば、いきおい、妙子が墓《はか》までもっていったあのおそろしい秘密《ひみつ》を、口にしなければならぬ。  それが、どんなにおそろしいことであるか……話す自分よりも、むしろきく鈴代にとって、よりかなしい、よりおそろしい、秘密でなければならない。  はじめてすべてを知ったときの、鈴代のおどろき……絶望《ぜつぼう》を想像《そうぞう》すれば、鏡子には、とうていそれを口にだす勇気はもてなかった。 「榊さん、あなたにご面会の人がいらしってよ」  大会の前日であった。  いよいよ最後の猛練習《もうれんしゆう》に、日の暮《く》れるのもわすれていたとき、ひとりの友だちがそういって、コートのむこうから呼《よ》びかけた。 「お客さま?」 「ええ、ご婦人《ふじん》のかたです。職員室《しよくいんしつ》のところでお待ちしていらっしゃいます」 「そう、ありがとう」  鏡子はラケットをおくと、しずかに汗《あせ》をぬぐった。 「このままでいいかしら?」 「いいでしょう。早くいってらっしゃい」  鏡子は、うすくかげりはじめた校庭をぬけて、職員室のほうへいった。 「榊さん、あの、榊さんではありませんか?」  ポプラのおいしげったあたりまでくると、鏡子はふいに背後《はいご》からそう呼びかけられて、ドキリとしたように足をとめると、のぞくように、薄暗《うすぐら》いポプラの下をながめた。 「いま、お目にかかりたいとお願いしたものでございます。あちらでは人目がありますので、わざと、ここまできて、お待ちしていました」 「はあ?」  鏡子は、そうあいまいな答えをすると、二、三歩そのほうへよって、相手の顔をながめた。  三十七、八のうつくしい奥《おく》さまふうの婦人だった。物をいうたびに、細い金歯がくらがりのなかにひかる。  それにしても、なぜこんな薄暗いところで、待っていたりするのだろうか。  鏡子にはわからなかった。 「あの、わたくし、名前をいうのはちょっとはばかるのですけれど、あなたのことは、前々よりよくぞんじています。きょうはじつは、たいへんおかしなお願いにまいったのですけれど……」 「はあ?」  鏡子はもういちど、前とおなじような返事をすると、首をかしげて相手の顔をのぞきこんだ。 「あしたは、いよいよテニス大会でございましたわね」 「はあ、さようで……?」 「それについて、お願いがあるのですが……」  と婦人《ふじん》はちょっといいしぶって、 「あなたは、やはりご出場になるおつもりなんでしょうか?」 「ええ」  鏡子は、相手がなにをいいだそうとするのか、計りかねて、あまりはっきりした返事をすることがはばかられた。 「じつは、まことにへんなお願いなんですけど、それをこんどだけは、お見あわせしていただきたいと思いまして……」 「え? 見あわす? あの、あたしがですか」 「はい」  婦人はうつむいて、ちょっと唇《くちびる》をかんだ。 「とおっしゃるのは? あの……なにか意味でもございますんでしょうか」 「それは申しあげかねます。ですけど……」  と婦人はよどみがちに、 「あたくし、たいへん、あなたのことを心配しているものでございます。ですからどうぞ……」 「すると、あたしが出れば、なにかあたしに危険《きけん》なことでもあるとおっしゃるのですか」 「はい」  婦人はそういって、じっと鏡子の目をのぞきこんだ。  その顔には、ことばではいいつくしがたいほどの、ふかい悩《なや》みと、かなしみとがみなぎっているのであった。 「ではあの、あなたはもしや……」  鏡子はおもわずせきこんで、そうたずねようとしたが、そのことばは、とちゅうで口のなかにきえてしまった。  婦人があやうく倒《たお》れそうになったからである。    解《と》けた呪《のろ》い  大会の日がやってきた。  校庭には、いっぱいにうつくしい幕《まく》などが張《は》りめぐらされて、空には色とりどりの万国旗が風にひらめいていた。  若《わか》い張りきった選手たちは、朝から上気した頬《ほお》をかがやかせながら、小鳥のように、校庭のなかを飛びまわっていた。  やがて若い選手たちから、ゲームの幕は切っておとされる。  こころよいラケットの音が、よく晴れた空にひびいて、ファイン・プレーを演《えん》ずるたびにおこる拍手《はくしゆ》の音が、校庭のポプラの梢《こずえ》をゆすぶっていた。  この大会には、近県のほとんどの学校から、参加選手をだしているので、それらの応援《おうえん》のために、うつくしい父兄たちも、たくさん見物のなかにまじっていた。  そういうなかで、晴れの試合を演ずるのであるから、どの選手の胸《むね》にも、若い功名心のたぎっているのは、いうまでもなかった。  それにしても、きょうのスター榊鏡子《さかききようこ》は、いったいどうしたのだろう。鏡子の顔は、早朝よりあおざめたまま、ゲームが進んでいくにつれても、すこしも昂奮《こうふん》の色は見せなかった。  なにかしら物思わしげに、なにかしらなやましげに、したしい友だちがことばをかけても、ろくろくそれに返事をしようともせず、あたかも放心しているようにさえ見えた。 「榊さん、ほんとうにどうしたの? どこか悪いんじゃない?」 「いいえ、ありがとう」 「しっかりしてちょうだいな。あなたが、そんなふうだと、あたしたちまで心ぼそくなってくるわ。あのトロフィーのためにも、ぜひぜひ奮闘《ふんとう》してちょうだいな」 「ええ、それはよくわかっているんですけど……」  鏡子は、ことばすくなにこう答えるだけだった。  そういううちにも、ゲームはどんどんすすんでいった。そしてついに鏡子の番がやってきた。  鏡子のきょうの相手というのは、おなじ町のY中学校の|主将だ《しゆしよう》った。Y中学校というのは、ことごとに鏡子の学校と競争の立場にたっていた。わけてもこのテニスの主将は、鏡子のもっともいい好敵手《こうてきしゆ》だった。  春の大会には、鏡子は妙子《たえこ》とくんで、相手をやぶっている。したがってこの秋には、ことに鏡子のいままであまりなれていない、シングルであるから、ぜひやぶらなければならないという闘志《とうし》が、相手の選手にはじゅうぶんうかがわれた。  ゲームは、まず相手方のサーブによって、切っておとされた。われるような拍手が、これを名ごりとばかりに、空いっぱいにひびきわたる。  美技《びぎ》また美技——そうしてゲームは進展《しんてん》していった。さいしょのうち、どうしたものか、鏡子に元気がなく、凡失《ぼんしつ》のために、しばしば敵に乗じられた。 「どうなすったんでしょう、榊さん。いつもとはまるっきりちがっているわ」 「いやね、トロフィーをY中学校にもっていかれるなんて」  味方のそうした懸念《けねん》のうちに、第一セットはかんたんに鏡子の敗《まけ》となった。  そして第二セット。  これもさいしょのうちは鏡子にミスが多かった。  敵《てき》の選手は、案外という顔つきで、鏡子のゆるい球《たま》をうちかえしている。  だが、第二セットがなかばころまできたときである。ふいに鏡子の球はするどくなった。鏡子のとくいとする正確《せいかく》なストロークは、ほとんど相手にそのスキをあたえなくなった。また鏡子の体内にみなぎっていた闘志《とうし》は、ゲームの進展《しんてん》につれて、猛然《もうぜん》と頭をもたげてきたのだ。  鏡子の心には、もはやこうなると、鈴代《すずよ》のことも、きのうの婦人《ふじん》のこともなくなった。あるのはただゲームばかりである。着々としてもりかえしてきたゲームは、はげしい接戦《せつせん》ののち、ついに鏡子のものとなった。  そして第三セット。  しかし、これはほとんど問題ではなかった。いちど堰《せき》を切っておとされた、鏡子の戦闘《せんとう》的な意識《いしき》は、相手に乗ずるスキをゆるさなかった。しごくのんきなたたかいののちに、栄《はえ》ある月桂冠《げつけいかん》は、ふたたび鏡子の上におちた。  なりもやまぬ拍手《はくしゆ》……海鳴りのようなどよめき……そのなかに鏡子は、しばらく呆然《ぼうぜん》と立ちつくしていた。  そのときである。  突然《とつぜん》ひとりの少女が、人なみをかきわけて、鏡子の前にあらわれた。いうまでもなく、それは鈴代であった。  鈴代の目は異様に血走り、そして、うつくしい花束をつきつけるようにさしだした。 「さあ、これをおうけとりなさい。この呪《のろ》いの花束をおうけとりなさい」  鈴代の舌《した》はもつれ、あたかも気がくるったように目をかがやかせている。  鏡子をとりまいていた友人たちは、あっけにとられたように、このふたりをながめていた。 「なにをおそれているのです? おねえさまの呪いの花束……かつて、あなたがおねえさまをおとしいれたとおなじように、あなたもまた、このおそろしい毒の花束を、うけとらなければならないのです」  鏡子の目はうつろのようにひらいていた。  鏡子はなにかいおうとしたが、のどがやけつくようにただれて、一言も口にだすことはできなかった。 「卑怯者《ひきようもの》……さあこれを……」  鈴代がむりやりにそれをさしだそうとしたときである。とつぜん、人々の背後《はいご》から、ひとりの婦人がとびだしてきた。 「その花束はわたくしがもらいます!」  そう叫《さけ》んだかと思うと、婦人は、いきなりその花束をうばいとって、しっかりと自分のうつくしい顔におしあてた。 「あっ! おかあさま! あなたは……」  そう叫《さけ》んだのは鈴代だった。 「鈴代! ゆるしておくれ……みんな、みんなあたしの罪《つみ》だったのです。おまえがかわいいばかりに、妙子に、あんなおそろしい最期《さいご》をとげさせた……ああ! みんな、みんなあたしの心得《こころえ》ちがいだったのです」  鈴代は、そのことばをきくと同時に、棒《ぼう》をのんだように爪立《つまだ》ちした。  と、思うと、泳ぐように両手をわななかせたが、そのままばったりと校庭にうちたおれた。    さて、ここで、次のような蛇足《だそく》を附《つ》けくわえる必要があるだろう。  妙子と鈴代とは、腹違《はらちが》いの姉妹だった。そして鈴代の若《わか》い母は、妙子の美しさが、むしろ鈴代よりも、幾倍《いくばい》も優《まさ》っているのが気にいらなかった。  そこに、あの恐《おそ》ろしい陰謀《いんぼう》がたくらまれたわけである。  ただ一つ、鈴代の母の知らなかったことは、鈴代自身では、妙子を真実の姉以上に|懐し《なつか》み、親しんでいたことである。  しかし、もうすべては過《す》ぎ去ったことである。  いまでは鈴代の病気もなおった。  鈴代は今、鏡子を亡《な》き姉とも思って親しんでいる。このふたりの仲は、昔日《せきじつ》の鏡子と、妙子の仲以上に、全校の羨望《せんぼう》の的となっている。 [#改ページ] [#見出し] 真夜中の口笛《くちぶえ》    不気味な物音  あたたかいベッドのなかで、益美《ますみ》はふと目をさました。  なんとなく寝《ね》ぐるしい夜であった。部屋《へや》のなかの空気が、ねっとりと、息ぐるしいほどしめり気《け》をおびているくせに、唇《くちびる》も鼻孔《びこう》もからからにかわいて、ふんわりとかけた羽根ぶとんさえ、その重さに耐《た》えかねるくらい……。  いま時分、なんだって目がさめたのだろう。夜明までにはまだ大分間があるようすだのに……。  益美はかけぶとんからすこしからだをずらせると、しずかに寝がえりをうって、強《し》いて目をとじてみた。  しかし、その夜の気候のせいだったか、それとも益美のからだの加減《かげん》か、いくら眠《ねむ》ろうとしても眠れない。あせればあせるほど、頭がしんと冴《さ》えてくるばかりか、なんとなく、不安な胸《むな》さわぎさえつのってくる。  やわらかい|枕に《まくら》つけた耳を、じっとすましていると、どこかで、さらさらと湯の湧出《わきで》る音のするほかは、このひろい湖畔《こはん》の温泉《おんせん》旅館のなかは、ひっそりと海底《うなぞこ》のように静まりかえっているのだ。  どこかで、ボーン、ボーンと二時を打つ時計の音がした。  それをきくと、益美は何を思ったのか、ふいに毒虫にでも刺《さ》されたように、ベッドからとび起きると、逃《に》げるように窓《まど》のそばにかけよった。  ゆるいタオルのねまきを着た細い肩《かた》がガクガクとふるえて、からだ中の毛あなという毛あなから一度にゾッと冷たい汗《あせ》がにじみ出ている。  しばらく益美は、窓のそばに棒立《ぼうだ》ちになったまま、じっとまっくらな部屋のなかへ瞳《ひとみ》をすえていたが、やがてだんだんと日頃《ひごろ》の落ちつきをとりかえしてきた。  なんでもない。なんにも恐《おそ》ろしいことはないのだわ。まあ、あたしとしたことが、二時の音をきいてあんなにびっくりするなんて、ずいぶんばかばかしい話だわ。今夜はよほどどうかしているわ……。  しかし、そう考えながらも、益美のふるえはなかなかとまらなかった。なにも恐ろしい理由も、こわがるわけもないと、自分で自分にいいきかせてみても、さてベッドへ帰ってねようという気にはどうしてもなれないのである。  何かしら、まっくらな部屋のすみずみに、黒い、恐ろしい魔物《まもの》が、爪《つめ》をとぎながら待ちかまえているような気がする。  いっそ叔父《おじ》さんを起して、いっしょに寝かせていただこうかしら……。  そうも考えてみたが、さてこの真夜中に、そんな人騒《ひとさわ》がせな|まね《ヽヽ》をする勇気もない。  益美は|とほう《ヽヽヽ》にくれたように、ねまきの襟《えり》をかきあわせながら、ふとカーテンのすきまから、窓《まど》の外を眺《なが》めてみた。  ふかい、乳色《ちちいろ》の靄《もや》のなかに、ひろい湖水が、銀をいぶしたように、にぶく光っているのが見える。どこに月があるのか、つらなりあった信州の山々の嶺《みね》が、くっきりと空と境《さかい》している。  益美は、この深夜の高原の、ひっそりとした夢《ゆめ》のような景色に、しだいに心のなごやかさをとりもどそうとしていた。  と、そのときだった。ふいに、カサカサ、カサカサという物音に、彼女《かのじよ》はもう一度ギョッとして部屋《へや》のなかを振《ふ》りかえった。  たしかにそれは、益美のすぐ身近に聞えたような気がした。カサカサ、カサカサと、何かしら得体《えたい》の知れぬ魔物《まもの》が、ひそやかにうごめいているような物音……闇《やみ》のそこから、恐《おそ》ろしい妖気《ようき》をはきながら、じっと自分のほうをねらっているのではあるまいか。  カサカサ、カサカサ……  不気味《ぶきみ》な物音がふたたび聞えてきた。  まちがいはない。たしかに、何者かが部屋のなかにいるのだ。たった今まで、益美の寝《ね》ていたベッドのうえを、恐ろしい毛むくじゃらの手で撫《な》でまわしているような物音。  カサカサ、カサカサ、カサカサ……  不気味な物音はくらやみの底からしだいにせわしく、はげしくなってくる。  益美はもう、全身の血が凍《こお》ってしまいそうな恐ろしさにうたれた。誰《だれ》か人を呼《よ》ぼうにも、のどがふさがってしまって声が出ないのである。明るみのなかで見たら、総身《そうみ》の毛が逆立《さかだ》っていたにちがいない。  と、この時だった。  どこからともなく、ひくい口笛の音が聞えてきた。  ルルルルルル……ルルルルルル……  ゆるい、ふるえをおびた口笛の音、はじめはひくく、どこか遠くのほうで聞えていたのが、しだいに高く、間近にせまってくる。  ああ、真夜中の口笛の音!  益美はそれを聞くと、もうまっ青になってしまった。  呪《のろ》わしい口笛、真夜中の口笛、自分たち一家のうえにおおいかぶさっている呪いの口笛益美はいまそれを聞いたのである。  ルルルルルル……ルルルルルル……  口笛の音はしだいにせっかちに、高くなってきた。  益美は思わず気を失いそうになるのを、やっと窓|がまち《ヽヽヽ》で身をささえると、ヨロヨロとよろめきながら、ドアのほうへ歩みよった。ドアにはちゃんとカギがかかっている。益美はもどかしそうに、そのカギをひらくと、まるで倒《たお》れるように廊下《ろうか》の外へよろめき出た。 「おや、益美さん、どうしたのですか」  出あいがしらに強い青年の声。 「ああ、雄策《ゆうさく》さん、あの口笛……恐ろしい口笛……」 「ええッ、口笛ですって?」  たぶん、トイレにでも起きたのだろう、ねまき姿《すがた》の、がっしりとした青年は、ふしぎそうに耳をすました。 「何も聞えやしないじゃありませんか。益美さん、夢《ゆめ》でも見てたんじゃありませんか」 「いいえ、いいえ、たしかにだれかあたしの部屋《へや》のなかにいます。ああ、恐ろしい」  雄策はそれを聞くと、片手《かたて》で益美のからだをかばいながら、つと部屋の中に入ると、勝手知ったスイッチのありかをさぐって、カチッとひねった。  明るいバラ色の灯《ひ》が、さっと洪水《こうずい》のように部屋のなかに溢《あふ》れる。  しかし、部屋のなかには人のいた気配などない。 「益美さん、だれもいやしないじゃありませんか」  益美はその声に、夢からさめたようにあたりを見まわした。  ああ、あのカサカサという不気味な物音の主、口笛の主はどこへいったのだろう。  ベッドのうえには益美のはねかえした羽根ぶとんがくしゃくしゃになっているばかり、怪《あや》しい物影《ものかげ》とてはさらに見えない。  やっぱり自分は夢でも見ていたのだろうか……。  その翌朝《よくちよう》、益美はホテルのベランダに折りたたみ式のデッキ・チェアをもち出して、それに寄《よ》りかかりながら、ぼんやりと寝不足《ねぶそく》の頭をもみながら、湖水のうえをながめていた。  湖水のうえには、あたたかい高原の四月の陽《ひ》が、さんさんとふりそそいで、きょうもまたいいお天気である。高い山々に区切られた空は、まるで藍《あい》をとかしたような青さ、澄《す》みきった空気のなかには、かぐわしい湯の町の風が光っている。  益美が何気《なにげ》なくふと下のほうをみると、今しも湖ぞいに歩いてゆく、叔父《おじ》さんの小さな後姿が見えた。片手に採集網《さいしゆうあみ》を、片手に採集箱をさげた叔父さんは、きょうもまた昆虫《こんちゆう》の採集に出かけるとみえる。  益美の叔父さんというのは、片桐敏郎《かたぎりとしろう》といって、日本でも有名な昆虫博士であった。  片桐博士と姪《めい》の益美が、もう一か月あまりも、この温泉旅館に逗留《とうりゆう》しているというのは、益美の健康がすぐれないせいもあったが、一つには、この地方の昆虫に、博士が一方《ひとかた》ならず興味をいだいていたからでもあるのだ。  益美には親も姉妹もいない。幼《おさな》いときに両親に死別《しにわか》れ、一昨年たったひとりの姉を失ってからというものは、親戚《しんせき》といっては叔父にあたるこの老博士があるきりなのだ。  益美はことし十六になるのだが、からだが弱いために学校にもゆけず、しょっちゅうこうして、叔父さんにつれられて、全国の保養地を旅行してまわっているのだった。 「やあ、おひとりですね。先生はまた昆虫《こんちゆう》の採集《さいしゆう》ですか」  強い、元気のいい声を聞いて、益美はふと湖水のほうから目をそらして、うしろを振返《ふりかえ》ってみた。そこには昨夜の雄策青年が、湯あがりとみえて、てかてかと光った顔に、ニコニコと元気な微笑《びしよう》をうかべながら立っていた。 「ええ、たった今、出かけていきましたの」  益美は青白いほおに、よわよわしい微笑をうかべながら答えた。 「どうしたのです。今朝はまた顔色がよくありませんね。昨夜《ゆうべ》、あれから眠《ねむ》れましたか」 「ええ、あの……」 「眠れなかったのでしょう。いけないなあ。益美さんは、すこし神経質《しんけいしつ》すぎるんだよ。そんなことじゃ、いつまでたったところで、からだのよくなりっこはないと思うなあ」  雄策はぬれたタオルをぽんとベランダの欄干《らんかん》になげかけると、籐椅子《とういす》を引きよせて、益美のそばに腰《こし》をおろした。美しい引きしまった顔だちに、がっしりとした肩幅《かたはば》、いかにもスポーツマンらしい体格《たいかく》をした青年である。  雄策……姓《せい》は畔柳《くろやなぎ》、東京の高校の二年生だった。試験勉強がすぎて、すこしからだをこわしたので、春の休暇《きゆうか》を幸いに、二週間ほどこの旅館に滞在《たいざい》しているのだが、そのあいだに益美とすっかり仲好しになってしまった。ほかに話相手のないせいもあるが、まるで妹をいたわるように、この病身の少女にピンポンを教えたり、いっしょにボートをこいだりして、なんとかして健康をとりもどしてやろうと苦心しているのだ。 「どうです。あとでまたボートをこぎにいきませんか」 「ええ、でも……」  益美はなんとなくうかないようすである。 「いやですか」 「いやってことありませんけれど、あたし、なんだか頭痛がしますの」 「すぐ、これだからな……」  雄策は眉《まゆ》をしかめながら、 「それだから益美さんはいけないのですよ。運動をすればそんな頭痛なんかすぐけしとんでしまう。第一、運動がたりないから、昨夜みたいに寝《ね》ぼけたりなんかするのですよ」 「あら」  ふいに益美はおおきな、鈴《すず》のような目をみはった。 「ひどいわ、雄策さん……あたし寝ぼけたりしやしないわ」 「だって、昨夜したじゃありませんか。夜中に口笛が聞えるの、カサカサという音が聞えるのなんのって、あんな大さわぎをしたのはだれだい」 「だって、だって、ほんとうに聞えたんですもの」 「よしんば、ほんとうに聞えたところで、何もあんなにまっ青にならなくてもよさそうなものだと思うな。真夜中だからといって、口笛を吹《ふ》いちゃ悪いというわけはなし、ぼくだって吹くことはありますよ」 「あら、それじゃ雄策さん、昨夜のはあなたがお吹きになりましたの」 「いいや、昨夜のことは知らない。だけど、これから先、真夜中に口笛が吹きたくなることがあるかも知れないけれど、その時には、あんな大さわぎをしないでくれたまえね」 「よしてちょうだい!」  ふいに、何を思ったのか、益美はすっくとデッキ・チェアから立ちあがった。そして、いかにも恐《おそ》ろしそうに、ブルブルと肩《かた》をふるわせながら、じっと雄策の顔を見つめていたが、やがてよわよわしく腰《こし》をおろすと、ふいに両袖《りようそで》で顔をおおった。 「雄策さん、あなたは何もごぞんじないから、そんなことをおっしゃるのですわ。だけど、だけど、真夜中に口笛を吹くことだけはよしてちょうだい——それは、それは、あたしにとっては恐ろしい呪《のろ》いなんです」  そういったかと思うと、益美はふいにはげしくすすり泣きをはじめたのだった。    悪魔《あくま》の手  雄策《ゆうさく》は、しばらく呆然《ぼうぜん》として益美《ますみ》のようすを眺《なが》めていた。  それから、ゆっくりと立ちあがると、益美の肩にやさしく手をかけて、泣きじゃくりをしている顔をのぞきこみながら、 「ごめんなさい。何か気にさわることをいったのなら、ごめんなさい。そして、さあ、ぼくにその話をしてくれたまえ。ね、真夜中に口笛を吹くと、どうして益美さんのために呪いになるの。その話をしてくれませんか」  益美はやっと、顔から袖《そで》をはなしたが、|涙に《なみだ》ぬれた目に、またしても、恐怖《きようふ》にみちた色をうかべた。雄策はすばやくそれを見てとると、 「ねえ、その話は他人にしてはいけないことなの? だって、益美さんとぼくは兄妹《きようだい》みたいなものなんだろう。知りあってからたった二週間にしかならないけれど、ぼくは益美さんをほんとうの妹のように思っているのだよ。益美さんだってこの間そういったろう。だったら兄さんにかくすことなんかないじゃないか。もし、他人にいっていけないことだったら、ぼく、だれにもしゃべりやしないよ。さあ、話してごらん」  益美はそれでも、まだしばらくためらっているようすだったが、やっと決心がついたように、 「このことは、だれにもいっちゃいけないと、叔父《おじ》さまから堅《かた》く口止めされているんですけれど、あたし、心配で心配で仕方がないから、雄策さんだけにお話しするわ。だけど、だれにもいわないでちょうだいね。叱《しか》られるとこわいわ」 「叱るって、だれが叱るの?」 「叔父《おじ》さまよ」 「うん、ならだまっているよ。さあ、話してごらん」  益美はさも恐《おそ》ろしそうに、そっとあたりに目をくばると、おずおずと、いかにも臆病《おくびよう》そうに話しだした。 「あたしのうちにはね、口笛の呪《のろ》いがあるんですって。だれでも真夜中に口笛を聞くと、きっといけないことがあるという話なのよ。お父さまでもお母さまでも、お亡《な》くなりになるまえには、きっと真夜中に恐ろしい口笛をお聞きになったのですって。そして、それを聞くと、間もなく、ぽっくりとお亡くなりになったということなのよ」 「ふうむ」  それを聞いているうちに、雄策はおもわず鼻の穴《あな》をふくらませた。いかにもこの病弱な、神経質《しんけいしつ》な少女の話にふさわしい、あまりにもこっけいな、取るに足らぬことのように思えたからであった。 「いったい、だれがそんなことを益美さんに話して聞かせたの?」 「叔父さまよ。そして、これはずっと昔から、代々うちに伝わっているたたりなんですって。だれでも、真夜中に口笛を聞いたものは、必ず死ななくてはならないのよ」  益美はそこまで話すと、急におびえたように、肩《かた》をすくめながら、あたりを見まわした。 「ばかだなあ、益美さんは。そんなことをほんとうにしているのかい? じょうだんだよ。きっと、叔父さんがじょうだんにおっしゃったのだよ。そんなばかな話って今の世にあるもんか」 「いいえ、いいえ」  益美ははげしくからだをゆすりながら、 「だって、あたしにも一度|経験《けいけん》があるんですもの。お姉さまがお亡くなりになったとき、あたしもちゃんと聞いたのよ。あの恐ろしい口笛を……」  益美はふいに、恐ろしい回想に、肩をブルブルとふるわせながら、 「いつか、お話をしましたわねえ。お姉さまは一昨年《おととし》亡くなったのよ。その時分、しょっちゅうお姉さまはおっしゃってたわ。真夜中になると、どこかで口笛の音が聞えるんですって。お姉さまはそれがこわくて、だんだんやせておしまいなすったの。でも、あたし、そんな恐ろしい呪いのお話はまだ知らない時分のことでしたから、まあ、普通《ふつう》のご病気だろうと思って、いろいろ、なぐさめたり、介抱《かいほう》したりしていましたの。その時お姉さまは十七で、あたしは十四だったの。でも、いまとちがって、あたしはとても丈夫《じようぶ》な、元気のいい子だったのよ。ところが、とうとう、あの晩《ばん》……」  益美はそこで、またしても、瞳《ひとみ》一ぱいに恐怖《きようふ》の色をうかべると、ゴクリと音をたてて唾《つば》を飲みこみながら、 「忘《わす》れもしない、四月十四日の晩でしたわ。  ちょうど、昨夜《ゆうべ》のように、みょうに生《なま》あたたかい、寝苦《ねぐる》しい晩でしたけれど、あたしふと真夜中に目をさましましたの。すると、どこかでかすかに、ルルルルルルと、ひくい口笛の音が聞えるじゃありませんか。あたし、はっと思いましたわ。お姉さまがこの頃《ごろ》、毎晩《まいばん》なやまされている口笛というのはあれじゃないかしら……そこで、あたしは自分の部屋《へや》を出ると、そっとお姉さまの部屋のまえへ行って中のようすをうかがってみましたの。  すると、中から、いかにも苦しそうなお姉さまのうめき声が聞えてきます。お姉さま、お姉さまとドアの外から呼《よ》んでみても返事はありません。バタン、バタンとベッドのうえを叩《たた》くような物音がするばかり、それにまじって、息もきれぎれなお姉さまのうめき声が聞えますの。そのようすがただごとじゃありません。ドアをひらこうとしても中からぴったりとカギがかかっています。そこであたしは大いそぎで自分の部屋へ帰ると、あたしの部屋のカギをもって来て、お姉さまの部屋をひらいたのです。あたしの部屋とお姉さまの部屋とは同じカギでひらくことになっていましたのよ。  さて、部屋の中へ入って電燈《でんとう》のスイッチをひねってみますと、お姉さまは今にもベッドからすべり落ちそうになって倒《たお》れていました。あたしはびっくりして側《そば》へかけよると、お姉さまのからだをしっかりと抱《だ》きしめました。そして、夢中《むちゆう》でお姉さまの名前を呼んだのですの。すると、その声にうっすらと目をみひらいたお姉さまは、いかにも恐《おそ》ろしそうに身ぶるいをしながら、 『益美さん、気をおつけ、あの口笛の音……あの、恐ろしい、悪魔《あくま》の手……毛むくじゃらの悪魔の手……』  と、そういったかと思うと、そのまま、がっくりと頭を垂《た》れてしまいましたの。それっきり、ええ、それっきりなの。お姉さまはそのまま息を引きとっておしまいになりましたの。そして、それと同時に、あの恐ろしい口笛の音はぴったりと聞えなくなりましたのよ」  益美はそこまで話すと、まっ青な顔をまたしても両袖《りようそで》の中に埋《う》めてしまった。  その話を聞いているうちに、雄策の面《おもて》はしだいに引きしまってきたが、ふと思いついたように、 「その時分、益美さんのお家にはどんな人がいたの?」  とたずねた。 「だれって、あたしたち姉妹に叔父《おじ》さまと、それから召使《めしつかい》が二、三人、ただそれだけですわ」  益美はふしぎそうに顔をあげて答えた。 「それで、益美さんは、その口笛のことを誰《だれ》かに話しましたか」 「ええ、叔父さまにお話しましたの。すると、叔父さまははじめて、家に伝わっている恐ろしい呪《のろ》いのことを話してくだすったのですわ。ねえ、雄策さん、ですから、後生《ごしよう》ですから真夜中に口笛など吹《ふ》かないでちょうだいね」  しかし、雄策はその言葉を聞いているのかいないのか、じっと、湖水のうえに瞳《ひとみ》をこらして考えこんでいる。その雄策の視線《しせん》のむこうに、ふとある人影《ひとかげ》がうつってきた。  大きな採集箱《さいしゆうばこ》を肩《かた》にした、益美の叔父の片桐《かたぎり》老博士の姿《すがた》である。 「ああ、叔父《おじ》さんが帰ってみえましたよ。益美さん、ぼくもいまの話はだまっていますから、あなたもだれにもいわないほうがいいですよ」  そういいながら、雄策は|つと《ヽヽ》益美のそばを離《はな》れると、びっくりしている益美をあとに、あわててベランダから中へ入って行ったのだった。  その日一日、雄策はどこへ行ったのか、旅館のなかには姿《すがた》を見せなかった。  叔父さんは相も変らず、自分の研究に夢中《むちゆう》になっているし、雄策はいないしするので、益美はなんとなく、淋《さび》しい、つまらない一日を送ってしまった。 「益美や、夜ふかしをせずに、なるべく早く寝《ね》るのですよ」  晩御飯《ばんごはん》がすむと、叔父さんはやさしくそういいのこして、隣《となり》の自分の部屋《へや》へ引きとってしまった。しかし、昨夜《ゆうべ》のことを思うと益美はとても眠《ねむ》れそうにもない。なんとなく恐ろしさ、心細さがひしひしと胸《むね》に迫《せま》ってくる。益美はふと廊下《ろうか》に出てみると、いつの間に帰ってきたのか、雄策の部屋から、かすかに灯《ひ》がもれているのだ。益美はほっとしたように、そのほうへ歩いていった。 「雄策さん、いつ帰っていらしったの?」  益美がそう声をかけると、中から雄策のギョッとしたような声が聞えた。 「ああ、益美さん、どうしたの」 「まだ眠れそうにないから、お話にきたのよ。入ってもいい」 「あ、ああ、いいよ。お入り」  益美がドアをひらくと、雄策は何かしら鞭《むち》のようなものを編《あ》んでいる。 「まあ、何をこしらえていらっしゃるの?」 「これ?」  雄策はできあがった鞭をビューと振《ふ》って見せながら、ニコニコと笑って見せた。 「細い柳《やなぎ》の若枝《わかえだ》でつくってみたんだよ。あまり退屈《たいくつ》なものだからね。さあ、お入り」  雄策はベッドのうえに鞭を投出《なげだ》すと、益美のほうへ椅子《いす》を押《お》しやりながら、 「叔父さんは?」 「お部屋よ。またご研究でしょう。それよりあなたは今日、どこへ行っていらしたの?」 「どこってことはないけど、それより、益美さんは、叔父さんがいま、何を研究していらっしゃるか知っている?」 「知らないわ。何かまたむずかしい昆虫《こんちゆう》なんでしょう」 「ところが大ちがい。昆虫は昆虫だけど、ちっともむずかしくない昆虫さ」  雄策は何かニヤニヤとわらいながら、 「ハエだよ」 「ハエ?」 「そうさ。普通《ふつう》のハエさ。叔父《おじ》さんはね、毎日ああして採集箱《さいしゆうばこ》を持ってお出かけになるが、いつもその中には一杯《いつぱい》ハエを入れてお帰りになるのさ。ハハハハハ、こっけいじゃないか。ねえ」 「まあ」  益美は何かわけの分らぬ顔つきで、 「あなた、どうして、そんなこと知っていらっしゃるの?」 「なあに、この湖水の向うの番人に聞いてきたのだよ。博士はその番人にハエ取を頼《たの》んでいらっしゃるのだよ。そして、毎日|採集箱《さいしゆうばこ》をさげては、そのハエを買いにいらっしゃるのだ。ハハハハハ、あのへんはとてもハエが多いからね」  雄策はなぜかしら上機嫌《じようきげん》である。益美にはしかし、そのわけが分らない。叔父さんがなぜハエを買いあつめているのか、それよりも、そんなことを聞込《ききこ》んできて、なぜ雄策がうれしがっているのか、いっこう意味がわからない。益美はなんとなく、叔父さんを侮辱《ぶじよく》されたような気がして、不機嫌にだまりこんでしまった。 「どうしたの、きゅうにだまりこんでしまったね。ごめんごめん、あまりくだらないことをいったので、おこってしまったのだね。どうだね、益美さんの好きな、いつものホット・レモンをこさえてやろうか」 「ええ」  益美はやっと機嫌をなおして、ニッコリとうなずいた。  ところが、それからしばらくして、雄策のこしらえてくれたホット・レモンを飲んだ益美は、何かしら、舌《した》を刺《さ》すような苦《にが》みを覚えたかと思うと、ふいにわけのわからぬ眠気《ねむけ》に襲《おそ》われてきたのだ。雄策が何かしきりにおしゃべりをしている。益美は夢中《むちゆう》になってそれにあいづちをうっていたが、その返事がだんだん間遠になってきたかと思うと、とうとうぐったりと眠りこけてしまった。  と、思うと、いままでニコニコと笑っていた雄策の形相《ぎようそう》が、ふいに恐《おそ》ろしく引きしまってきた。しばらく、じっと益美の寝息《ねいき》をうかがっていた雄策は、ふいに、ニッタリと気味のわるい笑いをうかべると、益美のからだをベッドのうえにねかせ、そして、そっと柳《やなぎ》の鞭《むち》をとりあげたのである。  それからしのび足で廊下《ろうか》へでると、外からぴったりとドアをとざし、自分は柳の鞭をかかえたまま、ぬき足さし足、益美の部屋《へや》へしのびこむと、中からぴったりとカギをおろし、そして、カチッと電燈《でんとう》を消してしまったのだ。  いったい、雄策は何をしようというつもりなのだろう。    寝室《しんしつ》の毒グモ  くらやみの中にじっとうずくまった雄策《ゆうさく》は、柳《やなぎ》の鞭《むち》を砕《くだ》けるほどかたく握《にぎ》りしめて、じっと時のたつのを待っているのだった。  ときどき、懐中電燈《かいちゆうでんとう》を取りだしては、そっと腕時計《うでどけい》を眺《なが》める。十二時半ごろのこと、ドアの外で一度、片桐《かたぎり》博士の声が聞えた。 「益美、益美……もうねたのかい」  雄策がだまってからだをちぢめていると、しばらくドアをガタガタといわせていたが、中からカギがかかっているのをみると、 「ふむ、もうねたようだな」  と、低い声でつぶやきながら立ち去った。  それから間もなく、ボーンと廊下《ろうか》の端《はし》にある大時計が一時を打った。そして、それから大分たってからのこと……ふいに、どこかで口笛を吹《ふ》く音が聞えてきた。  ルルルルルル……ルルルルルル……  それを聞くと、雄策はゾッとするような恐怖《きようふ》を感じながら、それでもじっと歯をくいしばって、砕《くだ》けんばかりに柳の鞭をにぎりしめながら、くらやみの中に瞳《ひとみ》をすえている。  ルルルルルル……ルルルルルル……  低い、あたりをはばかるような口笛の音がした。雄策の額にはびっしょりと汗《あせ》がうかんできた。ガクガク、ガクガクと、こらえてもこらえても噛《か》み合わせた歯がなりだすのだった。  口笛の音はすぐ止んだ。と、思うと、ふいにバサッと何かしらベッドのうえに落ちたような物音それを聞くと、雄策はギュッとからだをかためながら、右の手に柳の鞭を振《ふ》りあげ、左の手でさっと懐中電燈《かいちゆうでんとう》の光をベッドのうえに投げかけた。その途端《とたん》、さすがの雄策もおもわず、アッと声をあげてたじろいでしまったのである。  ベッドのうえには、直径三十センチ以上もあろうかと思われる大グモが、毛むくじゃらの足をあげながらのっそのっそと這《は》いまわっているではないか。その不気味な、醜怪《しゆうかい》な、ゾッとするような動物は、まるで犠牲者《ぎせいしや》の姿《すがた》を探し求めるかのように、のろのろとベッドのうえを這いまわっていたが、いま、ふいの光にあうと、ぴんと二本の足をあげ、ギロリと金色の目玉を光らせながら、いまにも挑《いど》みかかろうとするようなかっこうをした。雄策の手にした柳の鞭が、ビューッと風を切ってクモのうえに落ちたのはちょうどそのときだった。  クモは危《あやう》く身をかわすと、憤《いきどお》りにからだをふるわせながら、足をちぢめて、今にも飛びかかりそうな身がまえをしている。ビュー、ビューと雄策は夢中《むちゆう》になって三度ばかり柳の鞭を振りおろした。  と、そのときである。またしてもあの不気味な口笛の音が聞えてきた。それを聞くと、恐ろしい大グモは、いままでの攻撃《こうげき》的な姿勢《しせい》をがらりとかえると、ふいにスルスルと壁《かべ》を這って天井《てんじよう》のほうへ登っていった。雄策の鞭《むち》がその後を追って、二度三度|振《ふ》りおろされたが、いずれも手もとが狂《くる》って、いたずらに壁を叩《たた》いている間に、クモはするりと天井の穴《あな》へもぐりこんでしまった。  ルルルルルル……ルルルルルル……  鋭《するど》い、せっかちな口笛の音。  それが途絶《とだ》えたと思う瞬間《しゆんかん》、ふいに隣室《りんしつ》から、鋭い叫《さけ》び声が聞えてきた。 「うわッ! ちくしょう! わしだ、わしだ。ちくしょう! ああ、助けてくれえ!」  それはたしかに片桐老博士の悲鳴である。それにつづいて、バタバタと床《ゆか》を蹴《け》るような足音、ドタリとだれかが床に倒《たお》れたような物音が聞えてきた。 「しまった!」  雄策があわてて隣室《りんしつ》へかけつけた時には、しかし、万事はすでに終ったところだった。  床に倒れた老博士の顔のうえには、あの恐《おそ》ろしい大グモが、毛むくじゃらの八本の足を一ぱいにひろげ、その鋭《するど》いくちばしは、しっかりと博士の首にくいいっているのだった。 「ちくしょう!」  雄策が力まかせに振りおろした鞭は、こんどこそ間違《まちが》いなく、恐ろしい毒グモに命中した。ポロリと博士の顔から、床のうえにおちたところを、遮二無二叩《しやにむにたた》かれた大グモは、間もなく八本の足をピクピクと痙攣《けいれん》させながら、口からまっ白な泡《あわ》を吐《は》いてへたばってしまった。   「これで、あたしはもう完全に、真夜中の口笛の呪《のろ》いから逃《のが》れることができましたのねえ」  益美は汽車の窓《まど》から、高原に降《ふ》りしきる雨を眺《なが》めながら、軽い溜息《ためいき》まじりにいった。 「そうですよ。最初からそんな呪いなんかありはしなかったのです。あれはみんな叔父《おじ》さんのでたらめだったのです。あれはね、クモを呼《よ》びもどすときの合図だったのですよ」  雄策はなぐさめるように、益美の肩《かた》に手をかけてそういった。 「お姉さまが亡《な》くなったときも、きっと天井《てんじよう》かどこかに、あのクモの出入をする穴《あな》があったに違いありませんよ。叔父さんはそこからそっとクモをすべりこませては、いい頃合《ころあい》を見計らって、呼びもどすために口笛を吹《ふ》いていたのでしょう。益美さんの聞いたのはそれだったのですよ」 「でも、昨夜《ゆうべ》にかぎって、どうしてそのクモが叔父さまに噛《か》みついたのでしょうね」 「それはね、ぼくの鞭で叩かれて、クモのほうでひどくおこっていたから、ひとの見さかいがつかなくなっていたからなのですよ。ぼくはこのあいだ益美さんから、お姉さまの亡くなったときの話を聞いたとき、いつか動物の本で読んだ、あのクモのことをすぐ思い出したのです。  それで、町の図書館へ行ってさっそく調べてみたんですがね。あれは台湾《たいわん》の南などにいる恐ろしい毒グモで、一度噛まれると十中八、九命はないのです。  地元ではそれで、あのクモのことを『悪魔《あくま》の手』と呼んで恐れているんですよ。ちょうど、毛むくじゃらの足をひろげたところが、どこか人間の手に似《に》ているからですね。しかもこのクモは、ひどく口笛がすきだという習性をもっているのです。  お姉さまにもきっと、このクモの姿《すがた》が、なにかしら恐ろしい悪魔の手のように見えたのでしょうね。  だから、お姉さまが、『悪魔の手が……』といったということ、口笛が聞えたということを聞いたとき、ぼくはてっきり、昆虫《こんちゆう》博士の叔父さんがこのクモをつかっているのだと思ったのです。  しかも、図書館からの帰りにあの水車小屋の番人に聞いてみると、博士が毎日ハエを集めていたこと、そして、今日かぎり、もうそのハエにも用はないといったということ……それを聞いてぼくはドキリとしました。  ハエはむろん、クモの餌《えさ》にちがいないが、今日かぎりいらないというのはどういうわけだろう……それはつまり、今日かぎりクモに用はないということになる。ということはいよいよ今夜、そのクモを使って、益美さんを殺しておいて、そのクモのしまつをするのではなかろうか……。  そう考えたので、ぼくは益美さんに眠《ねむ》り薬を飲ませておいて、自分でそっとクモのくるのを待っていたのですよ。  それもこれも、あなたたち姉妹にのこされたお父さんの財産《ざいさん》が原因《げんいん》なんですね。学者だってやっぱり金を欲《ほ》しがる人もある。しかし、非道《ひどう》な手段《しゆだん》でそれを手に入れようとすると、かえって自分の身をほろぼすことになるんだね」  益美は雄策の胸《むね》によりかかったまま、|涙ぐ《なみだ》んだ目でうっとりと、雨の高原の移《うつ》りゆく景色をながめていた。  汽車はいま、無心の煙《けむり》をはきながら、東京への旅をいそいでいる。 角川文庫『青髪鬼』昭和56年9月30日初版発行